人文地理学会大会 研究発表要旨
2009年 人文地理学会大会
セッションID: 107
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第1会場
近世対馬における城下町の空間構造
*上島 智史
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抄録

長崎県対馬市は、博多から約150km、韓国から約50kmの距離に位置し、「国境の島」と呼ばれている。古くから朝鮮との交易で生計を立ててきた対馬にとって、朝鮮との関係は重要な課題であり、それは近世対馬藩になってからも変わることはなかった。対馬藩は、交隣外交に尽力し、朝鮮通信使など日朝関係を維持しつづけた。対馬藩に関しては、文献史学においての研究業績がほとんどだが、日朝交易や藩制などに重点が置かれており、その舞台となった対馬の城下町については考察されてこなかった。 そこで、本研究では、そうした歴史・地理的背景を有する対馬の城下町がどのように形成され、どのような空間構造をしていたのかを解明していくことを目的とする。 対馬における城下町は、対馬の最南部に位置している厳原町東部に形成されていた。ここを古くから府中と称していたため、府中城下町と呼ばれてきた。対馬において、本格的な城下町の整備に着手するようになるのは、明暦二(1656)年・第21代藩主の宗義真の襲封以降である。朝鮮通信使が滞在する城下町であったため、馬場筋と呼ばれるメインストリート沿いに武家屋敷を配置するだけでなく、馬場筋を直線的な道路にしたことからも遠見遮断のような防御意識よりも500人以上におよぶ朝鮮通信使に配慮した城下町の構造となっており、他の城下町とは異なる構造を有していた。日朝交易の繁栄と城下町の整備にともない人口も増加し続け、元禄十二(1699)年には、16138人に達した。それ以降は、日朝交易の衰退とともに人口は減少していくが、朝鮮通信使の江戸同道のために府士(府中に居住する武士)数の占める割合は依然として高い特徴を維持していた。 上記のような特徴をもつ対馬の城下町の空間構造を明らかにするために、本発表では、文化年間(1804~1811年)に作成された城下町絵図「対州接鮮旅館図」を資料の1つとして用いた。この城下町絵図は、寛政の改革によって緊縮財政を推進してきた江戸幕府が、文化八(1811)年の朝鮮通信使を対馬で聘礼する際、その準備のために作成された。道路や町割だけでなく、上級武士については、その居住者名も記載されており、府中城下町を分析する上で重要な資料といえる。 それとともに文献史料として「延宝四年 屋鋪帳」・「海游録」・「通航一覧」巻百三十二・「津島紀事」・「津島日記」・「楽郊紀聞」を用いる。「延宝四年 屋鋪帳」は宗家文書の記録類に属し、町ごとに居住者名・職種・坪数が記載され、近世初期における居住形態を読み取ることができる。対馬藩士が作成した地誌書としては、府士・百姓・町人から聞き取りしたことを整理した「楽郊紀聞」[安政六(1859)年]、幕府の命により地理・歴史に関して編纂された「津島紀事」[文化六(1809)年]の2点を用いる。これらにより、城下町の風俗・雑聞・奇聞・異聞等の様子を把握することができる。このほかに、城下町の様子をうかがえる史料としては、安永元(1773)年に長崎奉行所の役人が対馬へ派遣されたときの報告書である。「通航一覧」巻百三十二、文化八(1811)年の朝鮮通信使応接のため対馬に赴いた儒学者草場珮川の記録である「津島日記」があげられる。また、1719年の朝鮮通信使がみた府中城下町として、申維翰が記録した「海游録」も史料として用いる。これらの史料を分析することで、近世における府中城下町の姿を明らかにする。 まず、城下町絵図「対州接鮮旅館図」をもとに文化八(1811)年の府中城下町を復原してみた。武家屋敷は南部の海岸から北部の宗家屋敷を結ぶ馬場筋に沿って立ち並び、町屋敷は主に河川に沿って立ち並んでいることがわかる。また一方で、武家屋敷と町屋敷が明確に区分されておらず混在しているところも見られる。「延宝四年 屋鋪帳」によると、延宝四(1676)年においても明らかに武家屋敷と町屋敷が混在している町がいくつか記載されており、おそらく城下町の形成期から混在し続けたのではないかと想定される。このように町屋敷と武家屋敷が混在するのは対馬の城下町の特徴といえるだろう。おそらく平地の乏しい対馬にとって、土地不足は常に悩みの種であったことが理由の1つであると思われる。元禄十二(1699)年に城下町の人口は、16138人のピークをむかえたが、狭い府中では飽和状態であったため、武家屋敷と町屋敷の混在が生じたのではないかと思われる。

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