人文地理学会大会 研究発表要旨
2009年 人文地理学会大会
セッションID: 108
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第1会場
江戸時代の武州二郷半領における村々と定期市利用
―平沼1・6市を中心に―
*渡邉 英明
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抄録

_I_.はじめに
江戸時代の武蔵国では,定期市が広範に展開したことが知られている。定期市は,一定周期をもって設営される取引の場で,江戸時代の武蔵国では,5日単位で1ヵ月に6度開催される六斎市がその主流をなしていた。武蔵国の定期市に関する研究は,伊藤(1967)の先駆的業績をはじめ,多摩郡や秩父郡など武州西部を中心に蓄積が進んでいる。一方で,武州東部とりわけ葛飾郡の定期市については,相対的に分析が手薄であった。本研究は,武州東部の二郷半領を事例として,村々と周辺定期市との関係を検討することを目的とする。

_II_.対象地域の概観
二郷半領は武蔵国の東部低湿地帯に位置し,東を江戸川,西を古利根川,南を小合溜井で区切られ,北は吉川村の北方で松伏領と接していた。南流する古利根川左岸の自然堤防上には早くから集落が立地し,戦国期には上赤岩・吉川・彦名・花和田などの市場が存在したことが知られている。また,古利根川右岸の八条にも,戦国期に市が立てられた。
江戸時代の定期市について,『風土記稿』をみると,平沼・三輪野江という2ヵ所の六斎市が二郷半領内に確認でき,また,越谷宿・草加宿の六斎市も二郷半領から1~2里程度の距離にあった。さらに,江戸川左岸をみると松戸宿と流山村に六斎市があり,また,小金町や東深井村でも定期市が確認できる。これらの定期市間では,隣接する市同士で市日が重ならないよう調整され,いわゆる「市リング」が形成されていた。

_III_.二郷半領の村々における定期市の利用
 近世二郷半領の村明細帳を分析したところ,最寄市場として最も頻繁に表れる定期市は,平沼村であった。特に,古利根川左岸の彦倉村や中曽根村は,18世紀前半時点で余剰米を平沼村で売却しており,中曽根村では幕末期までそれが続いたことが確認できる。また,同じ二郷半領の村であっても,18世紀後期の境木村では,平沼村とともに松戸宿でも米穀を売却していた。彦倉村や中曽根村は,平沼村に1里程度と近接していたが,二郷半領南部に位置する境木村は,直線距離では松戸宿の方がむしろ近く,平沼村と松戸宿の両方で取引が行われたのも,それゆえと考えられる。
 近世中期以降の定期市は,在地への日用品供給機能よりも,在地からの特産品の集荷機能がより重要になっていたといわれている(伊藤1967:99-101)。江戸川と古利根川とに挟まれた低湿地に位置する二郷半領では,定期市に集荷される主要な商品は,米穀であったと考えられる。米穀以外では,縄・俵・莚といった稲藁を用いた製品の製造,あるいは木綿糸機などが,二郷半領の村々で広く営まれていたことが確認できた。ただし,これらは自己消費分の生産に留まり,定期市での販売は行われていなかったとされる。

_IV_.江戸時代後期の平沼1・6市とその商業圏
 二郷半領の米穀が集散した平沼の町場は,南北に走る往還の両側に民家が建ち並び,幕末期には400戸以上が軒を連ねたという。町並は北接する吉川村にも連続し,幕末期には六斎市の売場も吉川村地内まで拡大していた。江戸時代後期の平沼六斎市では,米穀をはじめ,麦,雑穀,豆類,農具など,様々な品目が取引されていた。そして,平沼には多くの米穀商人が居住しており,米穀商人仲間が形成されていた。平沼村に集荷された米穀は,主に江戸へと船で輸送されていたが,幕末期には米穀商人仲間がそれらの荷船を掌握していたという。
 また,平沼六斎市を利用する村々は,必ずしも二郷半領内に留まっていなかった。特に,19世紀に入ると,二郷半領に北接する松伏領の上赤岩村や川藤村が,最寄市場として平沼村を挙げている。また,平沼村から古利根川を挟んだ対岸に位置する埼玉郡柿木領の村々も,幕末期に平沼六斎市を利用していたことが確認できる。江戸時代中後期には,二郷半領の枠を超えた経済行動が広く展開していたといえよう。

【文献】
伊藤好一『近世在方市の構造』隣人社,1967。

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