2001 年 43 巻 p. 238-219
西洋世界の欲望や夢想の投影である太平洋の「楽園」「蛮人」のモティーフは、近代西洋植民地主義のみならず、文化的には植民地化された近代日本の植民地主義、さらには太平洋諸島の脱植民地主義の文脈においてもまた主要な位置を占め、その内容を変えながら、太平洋を語る枠組みとして機能してきた。だが植民地支配者側は常に固定的な「楽園」「蛮人」を再生産してきたわけではなく、また(旧)被支配者側も単にそれを模倣あるいは破棄してきたわけではない。むしろ継承と抵抗が双方において同時的に見られるのである。
サモアに滞在したR.L.Stevensonの短編「ファレサの浜辺」は南洋の美麗な楽園と愚鈍な蛮人を背景に、白人男性と現地民女性との結婚、白人の未開探索という植民地言説の典型的主題を語りながらも、従来のロマンスを転倒させる方向へ物語を導いている。Stevensonに共感し、自らもパラオに滞在した中島敦の短編「南島譚」「環礁」は現地の伝承説話や実地体験等を素材に「知れば知るほど不可解な南洋」という主題を描き、西洋の植民地ロマンス及び日本の同化主義的植民地言説への違和を示している。一方、C.P.Howard(米国領グアム)の小説『マリキータ』は、調和した異文化融合の地グァム、残虐な日本兵という形に「楽園」「蛮人」をそれぞれ変容させ、中島と同様日本帝国主義の欺瞞を対象化するが、同時に典型的な植民地ロマンスの構造をもち、米国の支配を支持している。対照的にA.Wendt(西サモア)の小説『菩提樹の葉』はStevensonから英語及び小説という形式を借りながら、「楽園」「蛮人」をパロディ化することにより植民地幻想の反立として自己表象を創造する企図を明示する。植民地言説をそのステレオタイプと土着の口承神話を用いて書き換えるテクスト戦略はStevensonや中島と通じる。だが何よりWendtの描くサモアは植民地言説との対話を経てサモア自身から生まれた反植民地言説である。