抄録
本稿では、占領期の有楽町という文化的、政治的コンタクト・ゾーンにおける「性」表象に関して、田村泰次郎の短編小説「肉体の門」(『群像』1947. 3)を軸に考察する。パンパン/私娼とは、社会が排除し、同時に必要悪として包摂した象徴的存在である。そして、パンパンが住まう有楽町は、GHQ の政治的中心であり、敗戦と占領のトラウマを映し出すトポスだろう。だが、有楽町とパンパンを描く文学テクストにおいて、アメリカの「影」は排除されている。GHQ の検閲は、メディアに括弧付きの自由を与え、民主主義を説く。しかしながら、検閲と民主主義とは、矛盾する概念であり、その捻れは「不在の米軍」に照射されるのだ。では、この不在のワンピースは、テクスト/コンテクストの何処に隠蔽/開示されるのだろうか。本稿は、占領期の複層的な性表象に辿る文学研究であり、映画『肉体の門』(マキノ正博・小崎正房監督、1948)に至るメディア研究の序論となる。