筆者はこれまでに『大乗荘厳経論』(Mahayanasutralamkara)「述求品」(Dharmaparyestyadhikara)の一部が『瑜伽師地論』(Yogacarabhumi)の『菩薩地』(Bodhisattvabhumi)「真実義品」(Tattvarthapatala)の構成と類似していることを指摘した.今回はそれら両論の類似性を手がかりに,『大乗荘厳経論』に説かれる意言(manojalpa)について考察する.意言についての記述は『摂大乗論』(Mahayanasamgraha)においても見られる.そこでの意言は悟りを得るための基盤・手段として重要な役割を与えられ,それは仏陀や大乗の教えを聞くことによる熏習を原因として生じるものとされている.一方,『大乗荘厳経論』の意言は,不浄観というヨーガの実践の文脈において説かれているようである.すなわち,意言は不浄観における骨や皮等として顕現するイメージの原因とされている.この『大乗荘厳経論』に説かれる意言の概念を『菩薩地』「真実義品」に見られるvastuの理論と関連させるとき,意言はvastuのような外界対象に関する理論とヨーガの実践理論を媒介させる重要な位置付けにあることが明らかとなる.そしてこの意言の概念がさらに展開し,虚妄分別やアーラヤ識の理論が形成されていったとも考えられるのである.本稿では『大乗荘厳経論』に見られる意言が瑜伽行派の思想史において重要な役割を果たしていることを明らかにする.