印度學佛教學研究
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一切皆成の授記『法華経』
―― 「常不軽菩薩品」を中心に――
鈴木 隆泰
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2016 年 64 巻 3 号 p. 1155-1163

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抄録

『法華経』では随所に,『法華経』やその受持者を誹謗すると酷い報いを受けると説かれている一方で,『法華経』を受持すると六根清浄を得るとも説かれている.これらの所説を前提とする第19章「常不軽菩薩品」では,「過去世に存在していた「常不軽」という名の菩薩は経典の読誦等を一切行わず,増上慢の仏教徒たちにひたすら成仏の授記をし続け,そのことで彼は,彼らから誹謗,迫害を受けた.彼らはその罪で堕地獄した」と考えられてきたが,ここに,「なぜ『法華経』の受持・読誦等をしていなかった常不軽を誹謗,迫害した四衆が堕地獄したのか」という疑問が生じる.この疑問に対しては従来,「『法華経』は授記をする経典である.授記をしていたことで,常不軽菩薩は実は『法華経』の唱導をすでに行なっていた」という理解が一般的であった.しかしその場合,「この法門を受持・読誦・解説せよと繰り返し強調している『法華経』が,経典なしで授記することを『法華経』の唱導,実践と見なしているのか.常不軽菩薩品の教説は特殊なのか」との疑問が払拭できなくなる.本研究はこの疑問への回答を通して,『法華経』と授記の関係,および「常不軽菩薩品」の『法華経』における位置づけを考察した.以下に考察結果を記す.『法華経』第10章「法師品」では,如来の滅後に,一切皆成の授記を行うブッダのことば『法華経』を説き聞かせる法師は,如来の使いであり,如来の仕事の代行者であり,如来そのものと知られるべきである,とされている.『法華経』の制作者たちは,釈尊入滅後の<無仏の時代>という強い意識のもと,ブッダの意義を,説法によって現在化され衆生を利益する<現実のハタラキ>と捉えたのである.その後,第11章「見宝塔品」から第14章「従地涌出品」までは,如来の滅後に,誰がどのようにこの『法華経』を受持し説示するかが問われ続ける.そして続く第15章「如来寿量品」と第16章「分別功徳品」においては,如来の滅後であっても『法華経』が説示される限り,釈尊は永遠にこの世に現存し,衆生利益の<ハタラキ>をなし続けると説かれる.その後,第16章から第18章「法師功徳品」では,『法華経』受持の様々な功徳を説くことで,『法華経』が受持され説示されることを勧め,如来の滅後に衆生を利益する釈尊の<ハタラキ>が実現しやすくなるよう配慮している.そして第19章「常不軽菩薩品」では,『法華経』受持で六根清浄が得られることを再説示しつつ,如来の滅後には,一切皆成の授記を行うブッダのことば『法華経』を説き聞かせることによってのみ,説法によって現在化され衆生を利益する<現実のハタラキ>が実現されることを改めて強調している.しかもその利他の<ハタラキ>をあらしめることで,説示者も速やかに無上菩提を獲得できると説かれる.そして,第14章で登場した地涌の菩薩に,自利利他円満の『法華経』を委嘱し,釈尊滅後の受持・説示を教誠する第20章「如来神力品」へと自然に接続している.このように,「常不軽菩薩品」は決して特殊なものではなく,「法師品」にはじまり「如来神力品」に至る,釈尊滅後において,『法華経』の受持・説示を通して,釈尊の衆生利益の<ハタラキ>を永遠に存続させようとする,『法華経』のメインテーマの文脈上に無理なく位置づけられるのである.

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© 2016 日本印度学仏教学会
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