2011 年 4 巻 p. 77-95
現代社会は、差別が不可視化しつつある。それは、差別がなくなったり、減少したりしたからではない。「排除型社会」「社会の心理主義化」などといわれるように、社会が変容しているがゆえに日常において、私たちが、差別を見抜くまなざしが劣化してしまっているのである。本稿では、差別を見えにくくさせる社会の特徴として、社会の「本質化」「医療化」などを検討したうえで、どのようにすれば、私たちがこの社会を反省的に生きることができるのかについて論じたい。
それは「カテゴリー化」を今一度見直すことである。カテゴリー化は、私たちが日常を生きていく上で、必要な実践であるとともに、それが過剰におこなわれたり、ある誤った知識のせいで歪んでいたりする場合、差別をもたらす実践ともなる。差別は、部落問題、障害者問題というかたちでの社会問題としてのみ生起するのではない。私たちの日常には、さまざまな差別を考えることができるきっかけが満ちている。また私たちは常に「差別する可能性」を生きているのである。差別は具体的に他者を排除する。しかし、差別は同時に、他者とより深く、親密に関係を創造できる契機でもある。他者とより深く繋がるためにも、私たちは自らの「差別する可能性」をそれ自体として反省し、よりよく生きていくうえでの手がかりとして考え直す必要がある。