2012 年 29 巻 4 号 p. 314-317
症例は66歳,女性。50歳時にバセドウ病に対して甲状腺左葉部分切除を施行。経過観察中に甲状腺腫大を認め,チアマゾール内服を継続していた。吐下血を主訴に近医受診。食道静脈瘤からの出血を認め,内視鏡的静脈瘤結紮術を施行された。その後の検査で巨大甲状腺腫からの血流による食道静脈瘤と診断され,加療目的に当科紹介・転院となった。前頸部に10cmを超える甲状腺腫大を認め,甲状腺全摘術を施行した。腫大した甲状腺は極めて血流豊富で,特に右Berry靭帯周囲では,気管膜様部から食道に向かう怒張した静脈を数本認めた。術後第6病日に上部消化管内視鏡検査を行い,食道静脈瘤の著明改善を確認した。
巨大な甲状腺腫大を呈する症例の診療に際しては,下行性食道静脈瘤が存在している可能性を念頭に置いておく必要があると考えられた。
下行性食道静脈瘤は稀な疾患であり,食道上部に形成される頭側から尾側へ向かう下向きの血行路である。肺癌や縦隔腫瘍などによる上大静脈の閉塞に起因するものが多く,肝硬変などに伴って形成される通常の食道静脈瘤に比し,出血症例が極めて少ない。今回われわれは,非常に稀な,甲状腺腫の再発に伴って発生した出血性の下行性食道静脈瘤症例を経験し,甲状腺全摘を施行したので若干の文献的考察を加えて報告する。
症 例:66歳,女性。
主 訴:吐下血。
既往歴:30歳時,バセドウ病と診断されチアマゾールの内服を開始。
50歳時,バセドウ病に対して甲状腺左葉切除を施行されたとのことだが詳細不明。その後も甲状腺腫大を認め,チアマゾールの内服を継続。
家族歴:特記すべきことなし。
現病歴:当院入院2週間前に吐下血を主訴に近医救急受診。RCC計8単位を輸血,緊急上部内視鏡検査を施行された。食道静脈瘤からの出血を認め,内視鏡的静脈瘤結紮術を行い止血された。その後の検査で巨大甲状腺腫からの血流による食道静脈瘤と診断され,加療目的に当科紹介・転院となった。
入院時現症:身長159cm,体重42kg,血圧120/60mmHg,脈拍70/分・整,前頸部に横切開の手術痕を認める。甲状腺は右葉優位に12cm大に腫大,左葉にも甲状腺腫を認めた。頸部リンパ節は触知しない。
血液検査所見:末梢血液検査,生化学検査,凝固検査に異常を認めなかった。甲状腺機能は,チアマゾール15mg/日,レボチロキシン25μg/2日内服下にTSH 0.01µIU/ml,fT3 5.34pg/dl,fT4 0.40ng/dl,抗甲状腺ペルオキシダーゼ抗体600U/ml(0~15.0),抗サイログロブリン抗体 4,000IU/ml(0~27.0),TSH受容体抗体 87.3%(-10~10)であった。
頸部超音波検査:甲状腺は両葉ともにびまん性に腫大し内部エコーは不均一,ドップラーエコーで豊富な血流を認めた。
上部消化管内視鏡検査(図1a):上部食道に優位な静脈瘤を認め,下部にいくほど静脈瘤はおとなしくなり噴門部直上には静脈瘤の形成を認めなかった。門歯より35cmの中部食道に出血点を認めた。3か所で静脈瘤結紮術を施行し止血が得られた。
上部消化管内視鏡検査
a:術前。上部食道に優位な食道静脈瘤を認める。
b:術後6日目。静脈瘤は完全に消褪している。
CT(図2, 3):甲状腺はびまん性に腫大し,右葉は顎下部から鎖骨下端に及ぶ。初回に甲状腺左葉切除を行われたとのことであるが,甲状腺左葉の腫大を認めた。食道内腔の静脈瘤の血流は上部に多く,甲状腺近傍の血管と連続しているものと考えられた。右内頸静脈は腫大した甲状腺右葉により圧排・狭窄しているが,腕頭静脈,上大静脈に狭窄を認めなかった。脾腫は認めるものの肝硬変の所見は認めない。
頸部造影CT
著明に腫大した甲状腺が,気管・右内頸静脈を圧排・狭窄している。気管膜様部背面に怒張した静脈を認める(矢印)。食道周囲には怒張・蛇行した静脈瘤を上部優位に認める(矢頭)。
3DCT
甲状腺両葉の背面から,食道に向かって流入する拡張・蛇行した静脈を数本認める(矢印)。右内頸静脈は甲状腺下極近傍で著明に狭窄している(矢頭)。
以上の臨床・画像所見より,術後再発巨大甲状腺腫に起因する食道静脈瘤の診断で,全身麻酔下に甲状腺全摘術を施行した。
手術所見:甲状腺は流入する豊富な血流により緊満していたが,右上・下甲状腺動脈,左下甲状腺動脈をクランプすることにより,良好な出血コントロールが得られた。左上甲状腺動脈は同定できず,初回手術時に処理されたものと思われた。右葉下極,左葉下極には下甲状腺静脈と思われる脈管は同定できず,前回手術時に結紮されたものと推測された。甲状腺背面・気管後方膜様部から食道に伸びる,蛇行した太い脈管数本を右側に優位に認め,反回神経を取り囲むように走行していた(図4)。この側副血行路が食道静脈瘤の原因と思われた。これらを慎重に結紮処理することによって,静脈の怒張は緩和されたが,図4に示すように甲状腺全摘後にも依然として静脈は通常よりも太い状態であった。術中出血量は170g,摘出甲状腺重量は266gであった。
術中所見
右反回神経を取り囲むように数本の蛇行し怒張した静脈を認め,気管膜様部から食道に向かって流入していた。
術後経過:術後6日目に,上部消化管内視鏡検査を行い,食道静脈瘤の完全な消褪を確認し(図1b),術後9日目に退院となった。
下行性食道静脈瘤は,多くの場合,肺・縦隔腫瘍や,外科的結紮による上大静脈の閉塞に伴って形成される[1]が,上大静脈の閉塞を伴わず,下甲状腺静脈の閉塞や,さらに内頸静脈の狭窄・低形成を伴って形成されることがある[2,3]。Lagemannは,甲状腺腫症例の4%,甲状腺術後非再発症例の12%,甲状腺術後再発甲状腺腫症例の54%に下行性食道静脈瘤の形成を認めたと報告している[3]。再発甲状腺腫症例の半数以上に静脈瘤の形成を認める原因として,腫大した甲状腺に流入する豊富な血流の流出血管として機能すべき下甲状腺静脈が,既往手術による結紮や瘢痕化によって閉塞をきたし,側副血行路として食道静脈瘤が発達することが考えられる。本症例でも,下甲状腺静脈は両側ともに術中に確認できなかったが,前回の手術時に結紮処理された可能性が高いものと考えられる。
下行性食道静脈瘤の中でも,出血をきたすものは非常に稀であり,Papazianらは,その頻度を7.6%と報告している[4]。甲状腺疾患に関連した出血性下行性食道静脈瘤症例はこれまでに11例,本症例を加えて12例の報告を数えるのみである(表1)[2,5~14]。肝硬変などによる門脈圧亢進症に伴って形成される通常の食道静脈瘤と比べ,出血症例が少ない理由として,以下のことが挙げられる[8]。
出血をきたした甲状腺関連下行性食道静脈瘤症例(Van der Veldt AAら[12]に加筆・修正)
第一に,下行性食道静脈瘤患者の肝機能は正常であり,出血性素因がないこと。
第二に,下行性食道静脈瘤は上部食道に存在するため,胃食道逆流による粘膜の損傷を受けにくいこと。
第三に,通常の食道静脈瘤は菲薄化した重層扁平上皮直下の静脈叢に形成されるのに対し,下行性食道静脈瘤では粘膜下に形成されること,の3点である。
頻度が低いとはいえ,食道静脈瘤からの出血は致命的となるため,緊急止血処置を要する。一般的に,食道静脈瘤に対する処置としては,Sengstaken Blackmore tubeによるバルーンタンポナーデ,内視鏡的結紮術,内視鏡的硬化療法が行われている。Tsokosらは,出血性下行性食道静脈瘤症例に内視鏡的硬化療法を施行した結果,硬化物質による肺塞栓をきたして死亡した症例を報告しており,中部食道よりも頭側に形成された静脈瘤に対して硬化療法を行う際には,慎重に適応を検討すべきと述べている[11]。甲状腺腫を伴う出血性の下行性食道静脈瘤は,表1(Van der Veldt AAら[12]に加筆・修正)に示したように甲状腺切除により治療可能であり,手術の絶対的適応と考える。
手術に際しての注意点として,上・下甲状腺動脈の遮断による出血のコントロールが重要である。特に,反回神経周囲に豊富な側副血行路ができやすいため,慎重な止血操作が要求される。
甲状腺腫に起因した出血性下行性食道静脈瘤の1例を経験した。その成因として,既往甲状腺手術による甲状腺からの流出血行路の遮断,および再発巨大甲状腺腫による頸静脈の圧迫の影響が考えられた。
出血をきたす頻度は少ないものの,甲状腺術後症例,術後再発症例においては,かなりの頻度で下行性食道静脈瘤が存在するものと予測される。その様な症例に対しては,上部消化管内視鏡検査,食道透視,あるいは造影CTなどによる評価を行うことも検討すべきかと考える。
なお,本論文の要旨は第24回日本内分泌外科学会総会(2012年6月8日,名古屋)にて報告した。