2020 年 37 巻 2 号 p. 106-109
分子生物学の進歩と,ゲノム解析技術の向上により膨大なゲノム情報を短時間で得られることが可能となってきたことから,我が国でもゲノム情報から個々の患者の病態解明と治療法についてアプローチするゲノム医療の整備が進められてきている。がん領域では2019年6月に遺伝子パネル検査が保険収載され運用されてきているが,パネル自体の性能や医療提供体制などに様々な課題も明らかになってきている。今後の我が国におけるゲノム医療への取り組みも含めて紹介する。
2019年6月にがん遺伝子パネル検査が本邦でも保険収載され,個々の患者の体細胞変異,胚細胞変異のプロファイリングを収集することで,それぞれの患者に合わせた精緻ながん診療,すなわちprecision medicineの提供の実現に一歩近づいた。
ここでは,今号の特集の総説としてPrecision Medicineに対する期待と問題点について整理して考えていきたい。
1990年から始まったヒトゲノムプロジェクトは,分子生物学の目覚ましい解析技術の進歩の後押しにより予定より早い2003年にヒトゲノム配列の解読完成版の公開が行われた。そしてヒトゲノム情報を医療に役立てることを目標として,2012年英国National Health Serviceの加入者で同意が得られた患者10万人を対象に,全ゲノムを解析する100,000 genome projectが開始された。これは主に希少疾患,悪性腫瘍に焦点を当て,臨床情報と配列データを紐づけて疾患の原因や新たな治療法の開発を目指す取り組みで,2018年に10万人の配列情報の解析が終了している[1]。
また,同様の取り組みとして2015年1月,米国のオバマ大統領(当時)が一般教書演説で初めてPrecision Medicine Initiativeという言葉を使用し,Personalize Medicineからさらに一歩進めた精密医療の推進を宣言した。このprecision medicineは,100万人規模の全米規模のコホートを創設し,ゲノムやその他のオミックスデータを用いて疾患の詳細なサブグループ分類を行い,各グループの治療や疾患の予防法の確立を目指す取り組みとされている。
日本でも欧米のこのような取り組みに追いつくために,2015年に健康・医療戦略推進本部に,関係府庁・関係機関が連携してゲノム医療を実現するためのゲノム医療実現推進協議会が設置され,ゲノム医療の実践化に向けた検討が積み重ねられてきた[2,3]。
ゲノム医療の実現において比較的実利用が近いとされたがん領域においては,がんゲノム医療を提供する体制作りとして,2018年から「がんゲノム医療中核拠点病院」および「がんゲノム医療連携病院」の整備が行われると同時に,これら病院から集められたがんゲノム情報の管理および利活用促進のための「がんゲノム情報管理センター(C-CAT)」の整備が進められ,2019年6月に「遺伝子パネル検査」が保険適用され,本格的にがんゲノム医療が開始された。図1に日本のがんゲノム医療の実施体制図を示す(図1)。

我が国のがんゲノム医療の実施体制
第1回がんゲノム医療推進コンソーシアム運営会議資料より引用・一部改変
また現在の解析遺伝子を絞った遺伝子パネル検査から,将来的ながんの克服を目指した全ゲノム解析への研究,治療開発のために,がんに関する全ゲノム解析等の推進に関する部会が設置され,今年度からがん,難病患者を対象として日本版10万人ゲノム「全ゲノム解析等実行計画」が開始となっている。
2019年6月から保険収載されたがん遺伝子プロファイリング機能を有するパネル検査はOncoGuideTM NCCオンコパネルシステムとFoundationOne CDxの2品目になる(表1)。両方ともハイブリッドキャプチャー法を用いており,DNAを断片化してアダプターを付加したのち,解析したい遺伝子配列をプローブとして目的のDNA断片をキャプチャーして解析する方法である(図2)。OncoGuideTM NCCオンコパネルシステムは患者のリンパ球から採取した正常細胞の遺伝子配列も同時に解析するため,腫瘍細胞で起きている体細胞変異と稀な正常細胞由来の遺伝子多型を確実に見分けることができる利点があるが,解析対象遺伝子数の点でFoundationOne CDxに劣る。一方FoundationOne CDxは腫瘍細胞だけを解析するため,得られたレポート情報には,体細胞変異と稀な遺伝子多型が混在していることもあり注意が必要である。

保険診療可能な遺伝子パネル検査

ハイブリッドキャプチャー法
日本肺癌学会バイオマーカー委員会 肺癌患者における次世代シークエンサーを用いた遺伝子パネル検査の手引きより引用・一部改変
これらのパネル検査では,機能活性化(ドライバー変異)が問題となるがん原遺伝子,機能不活性化が問題となるがん抑制遺伝子が解析対象であるほか,遺伝子変異量(TMB:Tumor Mutation Burden)を算出する。FoundationOne CDxの場合は,マイクロサテライト不安定性についても報告される。がん原遺伝子にドライバー変異が検出された場合は,その活性化機能を阻害する分子標的薬剤が治療候補としてあがる。また機能不活性化されたがん抑制遺伝子で変異の修復に関わるCaretaker型遺伝子(例えばBRCA1,BRCA2やミスマッチ修復関連遺伝子)の場合,その異常によりもたらされる細胞の表現型の特徴を標的とする治療法が候補として検討される(BRCA1,BRCA2の機能喪失型変異に対し合成致死を狙ったPARP阻害剤,ミスマッチ修復遺伝子の機能喪失型変異によるMSI-High,TMB高値腫瘍に対する免疫チェックポイント阻害剤)。しかし,このようにして明らかにされた遺伝子変異が腫瘍生物学的に,場合によっては遺伝的素因に関しても含めて,どのような意義を有するかについての判断と,それに対してどのような薬剤が候補として適当かを実際の症例に当てはめて推奨レベルに持っていくには,各種専門的知識を有する委員からなるエキスパートパネルでの検討が必要となる(表2)。実際のエキスパートパネルでは,がんゲノム情報管理センター(C-CAT)から得られたレポート原案をもとに専門委員と主治医との間で適切な治療法についての検討が行われる。最終的にこれら検討結果が患者に還元されるが,検査の同意を得てから患者に情報が還元されるまでには4から6週間程度の時間を有する。

エキスパートパネルの構成メンバー
保険診療で遺伝子パネル検査が日常診療でも使用できるようになったが,実際に患者に結び付いた症例は多くはない。昨年12月に厚生労働省が行った調査では,昨年6月から10月の間に遺伝子パネル検査を受けた805症例の中で,治療に結び付いた患者は88症例とおよそ1割程度であったことが報告された。この88症例のほとんどは,治験や患者申し出療養などの適応と推定される[4]。
そもそも遺伝子パネル検査の保険診療の適応は,標準的治療が終了したまたは終了することが見込まれる患者である。通常薬物療法が必要な患者では,先にそれぞれの臓器がんでみられる代表的なドライバー変異については最初に使用したい薬剤に対するコンパニオン診断を最初に行っているため,パネル検査を使用する段階では保険診療で用いることができる遺伝子変異が見つかるケースは稀である(NTRK融合遺伝子のようにパネル検査以外にコンパニオン診断がないケースは除く)。そうなると,遺伝子パネル検査の結果で得られる治療法の候補は,企業治験あるいは患者申出療養制度を用いた既承認薬の適応外使用しかないことになる。そのため,遺伝子パネル検査を受けた時点で標準的治療が終了している患者の全身状態を十分勘案して検査を検討する必要がある。
ただし日本のパネル検査で治療に結び付いた患者の割合が1割にとどまった点は欧米と比べて著しく悪いわけではなく,米国の遺伝子パネル検査MSK-IMPACTを受けた1万人の解析でも,治験などの臨床試験への参加が可能であった患者は11%と報告されている[5]。
ただ,今後さらに治療に結び付く患者の割合を上げるためにはシークエンス方法を見直すことは有用かもしれない。先のMSK-IMPACTにしても現在日本で使用できる保険診療パネルにしても,ハイブリッドキャプチャー法によるDNAシーケンシングである。融合遺伝子を検出する方法としては,ブレイクポイントが生じやすいイントロン領域にキャプチャープローブを設定して対応をしている。しかし,繰り返し配列や類似の配列のために適切なキャプチャープローブを設定できない領域がイントロンにはしばしば散在するため,すべての融合遺伝子を検出することは不可能である。実際にドライバー変異が見つからなかった肺腺癌589例を対象にRNAシーケンシング解析を試みた結果,解析可能な232例中36例にDNAシーケンシングでは検出できなかった融合遺伝子が見つかったことが報告されており[6],既存の遺伝子パネル検査でドライバー変異があまり報告されない軟部肉腫など一部の癌腫においてはレポート結果については慎重に判断する必要があるかもしれない。さらに,日本版10万人ゲノム「全ゲノム解析等実行計画」の実施により,日本人版TCGA (The Cancer Genome Atlas)が構築され,日本人特有のドライバー変異の新規発見と治療の開発が期待されるところでもある。
がん遺伝子パネル検査は始まったばかりで,まだまだ解決すべき課題も多い。それでも,がん遺伝子パネル検査の普及さらには全ゲノム解析データが,がんゲノム情報センターに蓄積されると同時に薬剤反応性も含めた臨床情報が蓄積されることで,将来の患者のためのゲノム情報に基づくprecision medicineに役立つことが期待される。