| 基調講演 |
MEDIA, ENGLISH AND COMMUNICATION, No.16 2026 The Japan Association for Media English Studies |
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日本メディア英語学会 第15回年次大会 基調講演
2025年9月28日 愛知淑徳大学星ヶ丘キャンパス
メディアとことばのバリエーション
太田 一郎(鹿児島大学)
1. はじめに
「ことば」は人と社会のインターフェイス(接触面)である。とくに現代では、マンガ・アニメ・ドラマ・CM といったメディアで使われることばが、人と社会のあり方を絶えず作り直していく。メディアはすでにある現実をただ「映し出す」のではない。それは、ことばの社会的意味を生み出し、流通させ、定着させ、ときに書き換えていく場なのである。
本稿の目的は二つある。第一は、記号システムとしての言語変異(バリエーション)が、メディアを介してどのように社会的意味を生み、循環させるのか、その仕組みを示すことである1。これは、その仕組みが人と社会にとって何を意味するのかを問うための前提となる作業でもある。手がかりにするのは、言語イデオロギー・指標性・エンレジスタメント・メディア化という、近年の社会言語学が援用してきた概念である。
第二の目的は、この仕組みをふまえ、一つの具体的な論点を批判的に検討することである。それは、地元への帰属感や親密さといった人と人とのつながりに根ざした価値が、メディアでどう商品として動員されるか――「地元性の商品化」という論点である。そのために取り上げるのは、鹿児島のローカルCMである。このCMでは、本来は見知った者どうしのあいだに立ち現れる親密さや連帯の感覚が、たった一つの方言アクセントを通じて、不特定多数の視聴者と一つの商業施設との関係へと向けられる。本稿は、この働きを記述するだけでなく、「それは何が問題なのか」を問う。
以下、次の順で議論を進める。まず分析の道具立てと循環モデル(2節)を示し、この道具立てがどこから出てくるのかを二つの研究系譜(3節、4節)からたどる。そのうえで、メディアの方言が「方言らしさ」として立ち現れるさまを、バリエーションを捉える枠組みとともに示し(5節)、それを手がかりに鹿児島のローカルCMを分析する(6節)。最後に、二つの目的に照らして全体を振り返り、本稿の知見をまとめる(7節)。なお、6節で展開する第二の目的にあたる批判的考察は、本稿のもとになった基調講演では時間の制約から十分に立ち入れなかった論点であり、論文化にあたって改めて論じるものである。
2. ことばとメディアの関係を捉えるための道具立て
本節では、以下の議論で依拠する分析概念を確認し、それらがどのように連動して「ことばの社会的意味」を生むのかを、一つの循環モデルとして示す。
2.1 分析のための概念
(1) 言語イデオロギー(Language Ideology)
言語とその使用に関する、文化的に体系化された表象や信念。しばしば無意識にはたらき、言語変化や社会秩序の作り直しに影響する(Silverstein, 1979, 1998)。
(2) 指標性(Indexicality)と 投錨(Anchoring)
指標性(indexicality)とは、ある記号が、対象との現実のつながり――時間的・空間的な隣接や因果関係――によって、その対象を指し示す性質をいう。ことばの形式(発音・語彙・文法など)も、こうした関係をなして、地域・階層・ジェンダーといった社会的カテゴリーを指し示す(indexする)(Agha, 2005, 2007; Eckert, 2008; Silverstein, 1976, 2003)。投錨(anchoring)とは、この指標的な指し示しを、それが生じる具体的な基点に結びつけて固定する働きのことである(谷島, 2025)。基点には二つの種類がある。一つは「いま・ここ・わたし」という発話の原点(指示指標的投錨)、もう一つは社会関係の場における特定の立ち位置(社会指標的投錨)である。
(3)エンレジスタメント(Enregisterment)またはレジスター化
ことばやふるまいのある様式が、それを行う人物の属性・他者との関係・進行中の社会的実践を指し示すステレオタイプ的な記号として扱われるようになる過程(Agha, 2003, 2004, 2024)。
(4)メディア化(Mediatization/Mediatisation)
社会的実践がメディアの論理に従って組み替えられていく過程。ことばもメディアの形式や制度に合わせて変容する。社会言語学では、ことばの社会的意味がメディア表象を通じて生まれ、受け手に解釈・再利用され、循環していく過程として捉えられる(Agha, 2011; Androutsopoulos, 2016; Ilbury, 2025; Jaffe, 2011; Lundby, 2009)。
2.2 概念の連関
これらは別個の概念だが、それが捉える現象は、図1のように連動して働く。出発点は日常的なコミュニケーション実践である。そこで特定の言語的特徴が繰り返し注目され、ある社会的カテゴリーや人物像と結びつくものとして認識されていく。この形式と社会的意味の結びつき、すなわち指標性の確立こそが、エンレジスタメントの核にある。こうして言語形式に社会的価値が付与され、「〇〇っぽい言い方」という認識ができあがる。いったんできあがったこの結びつきが、メディアということばを選び・整え・送り出す制度のなかに取り込まれていく。これがメディア化である。この過程で、言語形式はメディアの実践を通じて商品化・流通し、規模を広げて社会全体へ拡散していく。
メディア化はさらに二つの方向に働く。一つは再帰性(reflexivity)、すなわちメディア実践が自らを「商品・メディア」として意識的に扱う自己言及的な動きである。もう一つは受け手の解釈・応答(uptake)、すなわちメディア化された言語形式への評価や意味づけ、再文脈化である2。この循環全体を貫くのが言語イデオロギーで、それは各段階で言語形式がどのような社会的意味を帯びるかを方向づけると同時に、それ自身も循環によって更新・強化される。この連鎖の全体が、社会的意味や価値づけを生み、維持し、更新していく。
つまり、ことばとメディアの関係は、単なる内容の伝達に尽きるものではない。メディアは、言語イデオロギーを媒介し、指標的な結びつきを定着させ、レジスターを社会的に登記することで、ことばの社会的意味を生産・流通・固定し、そして更新していく場としてはたらく。とすれば、ことばとメディアの関係を問うことは、どの言い方にどのような価値が与えられ、それが誰のために動員されるのかという、ことばをめぐる社会的権力(power)の問題を問う批判的な営みでもありうる。本稿は、この批判的な問いを、6節の終わりで「地元性の商品化」という点から具体化する。
図1
指標性と言語イデオロギーに媒介された社会的意味の生成・循環モデル

3. 変異理論(Variationist Sociolinguistics)はどのように社会をとらえてきたか
2節で示した道具立ては、どこから出てきたのか。本稿はそれを、二つの研究の系譜にさかのぼってたどる。第一の系譜は、変異理論そのものの内部にある。変異理論が「社会」を何として捉えてきたか、その変遷をたどると、先に挙げた「社会的意味」「指標性」「実践」という概念に行き着く。
3.1 変異理論の枠組みと三つの波
1960年代のW. Labovの一連の研究に始まる変異理論は、基本的にある変異形が現れるか現れないかを、言語内・言語外の要因の影響による因果関係のモデルで説明しようとする。言語外要因としての社会をどう捉えるかをめぐって、変異理論には大きく三つの立場がある。これがいわゆる「三つの波(Three Waves)」である。
第一の波では、社会は社会階層・年齢・ジェンダー・民族といったマクロな社会カテゴリーとして捉えられ、変異形はこれらのカテゴリーと相関するものとして扱われた。第二の波では、エスノグラフィー(民族誌)の手法によって、こうしたマクロなカテゴリーを内側から構成する局所的なカテゴリー――社会ネットワークや実践の共同体――へと焦点が移り、話者が集団にどう帰属するかという成員性が問われた。もっとも、この二つの波では、変異はいずれも社会的カテゴリーを標示するものと見なされていた点で共通する。
第三の波は、この見方そのものを組み替える。変異は、あらかじめ存在する社会的カテゴリーを標示するのではなく、社会的意味を能動的に構築する記号資源として捉え直される。変異が生じる言語変数(linguistic variable)の意味はそれ自体では下位規定的(underspecified)で、他の特徴と組み合わさってひとつのスタイルをなし、特定の人物像(ペルソナ)を描き出すなかで、はじめて具体的な意味を帯びる。こうして問いは、「社会要因が変異形を説明する」という因果の枠組みから、「変異(形)の選択が社会的意味を立ち上げる」という記号論的な視点へと移っていく。嶋田・三上(2023)の言い方を借りれば、これは「社会で使われる言語」を見る視点から、「個人の言語使用のなかに立ち現れる社会」を見る視点への転換である。変異研究の関心はこうして、言語使用が帯びる社会的意味そのものへと向かっていった。
では社会的意味とは何か。Hall-Lew et al. (2021) は、それをある状況のなかで言語がどう使われるかから引き出される一連の推論と定義する。Eckert(2008)によれば、社会的意味にはスタンス(stance)・恒常的性質(permanent quality)・社会的タイプ(social type)などが含まれ、その射程は社会カテゴリーへの帰属から、その場かぎりの感情状態にまで及ぶ。大事なのは、社会的意味が、できあがった形式に後から付くのではなく、その形式が用いられる実践・文脈のなかで立ち現れると捉えられている点である。
この見方は「スタイル」の捉え直しに直結する。Eckert(2012)はスタイルを話者による指標的行為、すなわち「話者がスタイル実践を通じて社会のなかに自分をどう位置づけるか」として捉える。Schilling-Estes(2002)も、スタイルは話者が能動的に「デザイン」するものだと見る。つまり第三の波では、社会はもはや言語の外にある説明変数ではなく、話者のスタイル実践そのものを通じて、そのなかに姿を見せる。第三の波の理論は、こうした社会的意味の生成を捉えるために、指標性や言語イデオロギーといった記号論的言語人類学の概念を取り込んでいる。変異形をカテゴリーの標識としてではなく、スタンスやペルソナを構築する記号的資源として捉える見方は、この枠組みに支えられている。こうして変異が記号的資源として捉え直されると、分析の対象もおのずと広がる。音声面に限っても、従来から取り上げられてきた母音や子音といった分節音にとどまらず、ピッチやイントネーションなどのプロソディ、さらにきしみ声や息漏れ声といった声質(voice quality)までもが、社会的意味を担う資源として検討されるようになった。日本語を対象とした研究では、ある種の女性的なスタイルにおける声質の指標的意味を論じた Starr (2015) や、ジェンダー・地域・スタイルの交差を音声面から検討した Kajino (2014) が、その例として挙げられる。
3.2 ことばによる実践――記号活動としての言語
こうして社会を実践のなかに見るようになると、言語そのものを記号活動(semiotic activity)としての「ことばによる実践」として捉え直す視点へとつながる。図2はその見取り図であり、言語を「言語構造」「言語実践(談話実践)」「テクスト」の三層として描き、その全体が一つの記号活動として営まれることを示す。ここで肝心なのは、三層が独立した静的な対象ではなく、言語実践を軸として、資源・はたらき・所産という関係のなかで動的に結びついている点である。
図2
言語構造の三つの層

注. 図は横森(2018)をもとに筆者が作成。
中心にあるのは「言語実践」、すなわち言語がまさに用いられて相互行為を構成していくはたらきである。この実践は、一方で上の「言語構造」を資源として、そこから言語形式を引き出し、他方でその使用の結果を下の「テクスト」として残していく。さらに重要なのは、この流れが一方通行ではない点である。実践のなかで沈殿したテクストは、やがてふたたび実践に取り込まれ、資源である「言語構造」そのものを編み直していく。図2が示すように、資源とテクストのあいだのこのやりとりは、つねに中心の言語実践を経由して起こる。話者が社会的意味を指し示すものとして用いるスタイルやレジスターの実践も、この中心の「言語実践」の層に位置づけられる。こうして、変異理論における「社会」は、言語の外にあるカテゴリーではなく、ことばによる実践=記号活動のなかで立ち現れるものとして捉え直されてきた。
4. メディアは言語を変えるか――問いの組み替え
3節では、変異研究の系譜をたどり、「社会的意味は実践のなかに立ち現れる」という見方を確認した。ただし、そこでは、社会的意味の生成や循環にメディアが果たす役割は、まだ正面から扱われていない。だが現代では、メディアを介した言語実践が大きな比重を占めるようになっている。そこで本節では、第二の系譜として、「メディアは言語を変えるのか」という古典的な論争を取り上げる。あらかじめ述べておくと、この論争もやがて、構造の変化を問う視点から、社会的意味とその循環を問う視点へと移っていく。これは、第一の系譜と同じ視点であり、前節の結論、そして2節の枠組みと一致する。
4.1 メディアは言語変化の引き金にならない――対人接触説とその再考
ここでいう言語変化とは、音韻・形態・統語といった言語構造そのものの変化を指す。方言の共通語化・標準語化を語るとき、言語の均質化は「マスメディア、とくにテレビの影響によるもの」とされることが多い(cf. Chambers, 1998; 馬瀬, 1981, 1996)。しかし、Labov、Chambers、 Trudgillはいずれもこれに懐疑的である。三者に共通するのは、テレビなどのマスメディアは単独では言語変化を引き起こすことも、それを広げることもできない、という主張である(cf. Stuart-Smith, 2014)。
Labov(2001)は、実際の言語変化は対面の対人接触ネットワーク(Milroy, 1980)を通じて広まり、テレビはその人間関係を代替できないこと、フィラデルフィアの音変化も、テレビ視聴とは無関係に地域内の接触で進んでいることを指摘し、結論として、メディアは変化を開始させる力を持たず、せいぜいすでに進行中の変化を間接的に認知させる程度の効果にとどまると主張する。
Chambers(1998, 2003)も、視聴者はテレビで他地域の発音などの特徴に触れることはあっても、自分の話し方に取り入れるには、身近な人とじかに接し、その話し方を真似たり、それに合わせたりすることが必要だと述べる。アメリカのテレビがカナダで広く視聴されてきたにもかかわらず、カナダ英語の発音がアメリカ英語化していないことが、これを裏づけると言う。
また、Trudgill(1986)は、方言変化の中心は実際の方言話者どうしの接触であり、方言混交(dialect mixing)・平準化(levelling)・コイネ化(koineization)には物理的な移動や社会的接触が欠かせないとする。そのため、メディアへの露出は受動的な認知にはつながるが、産出にはつながらないと述べる。
このように、英語圏の伝統的研究は、「メディアは引き金にならない。鍵は人との接触だ」という点でほぼ一致してきた。これに再考を迫ったのが、Stuart-Smith et al. (2013) である。彼らは、グラスゴーの労働者階層の若年層を対象に、ロンドン方言的な特徴(th-fronting〔th音の前方化〕や l-vocalization〔l音の母音化〕)が急速に広がっていることを示し、その広がりに関わる複数の要因を分析した。なかでも注目されたのは、ロンドンを舞台とするテレビ番組、とりわけ EastEnders に感情的・心理的に強く関与する話者ほど、こうした特徴を多く産出する、という相関である。しかも、同居家族や友人にその特徴を使う者がいない場合にも使用が見られた。これは、対人接触を唯一の経路とする従来説では説明しにくい。彼らはこの結果を、テレビ視聴が威信やアイデンティティのモデルを差し出し、模倣を促すためだと論じる。テレビは変化の唯一の原因ではないが、ほかの要因と並んで、変化を加速させる「補助的触媒」として働きうる。こうしてこの研究は、テレビは言語変化の引き金にはならないという従来説の見直しを迫るものとなった。
4.2 問いを立て直す――「社会言語学的変化」と「メディア化」へ
この知見は、問いの立て方そのものの変更を促す。すなわち、「メディアは言語変化を起こすか否か」という問いから、その影響を左右する条件を問う方向への転換である。Stuart-Smith and Ota(2014)は、その条件として次の諸要因を挙げる。(a) どの種類の言語構造が関わるか、(b) その特徴がどんな社会的意味を担うか、(c) 受け手のメディア関与はどの程度か、(d) 「メディアモデル」(メディアが手本として差し出す言語のモデル)の「棚(shelf)」から話者がどう選び取るか、である。メディアが差し出すこうしたモデルは、「棚」に並んでいても、実際の言語経験というフィルターを通り、言語的詳細と社会的意味の双方が合ったときにだけ話者に取り入れられる。
こうした成果が示すのは、構造の変化だけを追う視点から、言語実践・社会実践を中心に据える視点への移行の必要性である。すなわち、メディアを介した言語の変化は、「社会言語学的変化(sociolinguistic change)」として捉え直されねばならない(Coupland, 2014, 2016)。この枠組みは、言語形式の変化にとどまらず、言語資源の使用実践・社会的評価・規範・イデオロギー、さらにメディア化までを含めて、言語と社会の関係そのものの変容を扱う。その背景には、現代がマスメディアからデジタルメディアの時代へ移り、変化の生じる場が、コミュニティ内の対面会話からメディア空間へと広がったという認識がある。Androutsopoulos(2014, 2016)にならえば、ここで求められるのは分析概念の転換である。すなわち、テレビなどの媒体を言語変化の外的な原因とみなす「メディア」の発想から、言語実践がメディアの論理や価値づけのなかに織り込まれていく過程を捉える「メディア化(mediatization)」の発想へ、そして個々の構造変化を追う「言語変化」から、言語と社会の関係の変容を捉える「社会言語学的変化」へ、という移行である。
こうして、第二の系譜は第一の系譜と合流する。3節は「変異は社会的意味を担い、その意味は実践のなかに立ち現れる」ことを論じ、4節は「その実践と意味が、今日ではメディアを介して循環する」ことを示した。この二つを一つに束ねるのが、2節で示した循環モデル(図1)である。以下では、この統合された視点に立って、メディアのなかのことばのバリエーションが、どのような社会的意味を帯び、それがメディアを介してどう循環するのかを検討する。
5 メディアのなかのことば――バリエーションを捉える枠組みと方言の「らしさ」
ここからは、メディアのなかのバリエーションの事例を検討していきたい。本節では、まずバリエーションを捉える枠組みを示し、それを手がかりに、ドラマやCMなどメディア作品での方言使用のあり方を取り上げる。そこで問題になるのは、メディアの方言がしばしば現実の方言そのものではなく、ステレオタイプ化された「方言らしさ」として立ち現れることである。
5.1 バリエーションを捉える二つの次元――条件づけと実現
私たちが日常で接することばのバリエーションの多くは、メディアを介したものである。その分析には、二つの次元を区別すると見通しが良くなる。一つは、何がバリエーションを生むのかという「条件づけ」の次元、もう一つは、それが言語のどのレベルに現れるのかという「実現」の次元である。条件づけには、重なり合う三つの観点がある。まず第一に、ジャンルである。小説・マンガ・アニメといった作品の形式や、翻訳のような産出様式が言語のあり方を方向付ける(cf. Trowell & Nambu, 2023)。第二は、地域・年齢層・性別などの話者属性である。第三は、実況・ニュース・授業などの言語実践、すなわち活動の種類に応じた言語使用(レジスター)である。実現の次元では、バリエーションは文法・語・音声・談話の進め方、コードの選択や切り換えなど複数のレベルに現れる。とくに音声は分節音・アクセント・声質などいろいろな側面を含んでいる。6節で扱う事例は、条件づけでは「ジャンル(CM)」と「言語実践(挨拶という活動)」が重なり、実現では「音声(アクセント)」に焦点が当たる例である。
5.2 メディアの方言と「らしさ」――真正性・ステレオタイプ・現実の作り変え
こうした枠組みのもとで考えてみたいのが、ドラマやCMに出てくる方言である。メディア作品の方言は、正確な「◎◎方言」である必要はない。問われるのは受け手に「◎◎方言らしい」と感じられるかどうかである(cf. 田中, 2016)。現実の姿に忠実かどうかよりも、目立つ特徴を手がかりに受け手が「それらしさ」を認識できるかどうかが重要になる。これは、真正性(authenticity)の問題でもある。メディアの方言が志向するのは、現実との一致という真正性ではなく、作品のなかで「本物らしい」と受け取られること――いわば認識上の真正性である。
重要なのは、この「らしさ」がテクストや話者に内在する性質ではないという点である。特定の特徴がある地域や人物像と結びつくものとして社会的に認知されている――指標性が確立している――からこそ、その特徴を出すだけで「らしさ」が喚起される。「らしさ」は、指標性と言語イデオロギーを介して、相互行為のなかで事後的に達成される。そのためメディアの方言は「リアルな方言」より「ステレオタイプ的方言」であることが多く、登場人物のキャラ形成など、作品のなかで何かの効果を上げるために使われる。ただし、この「らしさ」志向には限界もある。作品では当該方言の母方言話者が配役されることはむしろ少なく、語彙や文法のステレオタイプは再現できても、音調の上げ下げのような微細な点は再現が難しい。そのため役者も苦労するし、また母方言話者の違和感や苦情もこの面に向かいやすい。
さらに、作品が示す「らしさ」に含まれない特徴は、その方言を実際には知らない受け手には「ないもの」として受け取られやすい。逆に、その方言を現実に知る受け手は、そのずれに気づくことができる。たとえば 1983 年放送の NHK 連続テレビ小説「おしん」は、明治末から昭和にかけての物語だが、その大正期にあたる場面では佐賀が舞台となる。物語の時代設定からすれば、ここで再現されるべきは1920年代前後の佐賀のことばである。しかし、佐賀方言と同じ肥筑方言に属する福岡県南部方言を母方言とする筆者には、このドラマの方言が、1920 年代というよりは放送当時(1980年代)の佐賀方言によく似て感じられた3。
このような事例が示すのは、メディアが過去のことばを再構成するとき、それを放送当時の言語の像へ引き寄せることがある、ということである。作品の外に参照点をもたない受け手にとっては、このメディア版こそが「1920 年代の佐賀のことば」の事実上の基準になる。現実のことばについての記憶が、メディアによって書き換えられるのである。何が「そのことば」なのかという認識がこうして作られていくことも、メディア化の一側面である。1節で述べたように、メディアは現実を映すにとどまらず、言語や社会的現実そのものを作り変えていく場でもある。本節で見た事例は、それを具体的に示している。次節では、鹿児島のローカルCMを対象に、こうしたメディアのはたらきを検討する。焦点となるのは、たった一つのアクセントの選択が、いかに精緻な社会的意味を生み出すか、その過程である。
6. たった一つのアクセント――ローカルCMにおける社会的意味のはたらき
本節では、前節で述べたこの過程を、音声(語アクセント)のレベルに絞って読み解く。分析の基盤とするのは記号論的な見方であり、その道具立てとして、2節で示した指標性・投錨(記号と対象の関係)、エンレジスタメント(記号が形成される過程)、メディア化(記号が流通する過程)を用いる。さらに必要に応じて、指標の秩序・指標の場やフッティング(footing)といった概念を加える。
取り上げるのは、鹿児島市の繁華街・天文館の中心にある複合商業施設「センテラス天文館」の開業時に放映されたテレビCMである。CMには鹿児島出身の俳優・上白石萌音さんが出演していた。(映像はCM放送時からしばらくインターネットでも見られたが、現在は削除されている。)
センテラスの前身は、天文館のランドマークとして長く親しまれた「タカプラ」である。百貨店「大見高島屋」から 1975 年にファッションビル「高島屋プラザ」へ業態転換し、1990 年に通称が定着して「タカプラ」と改称された。タカプラは、市電の停留場やアーケード入口に面した好立地のため、待ち合わせの定番として親しまれたが、再開発で 2018 年に閉館し、4 年後の 2022 年、ホテルや図書館を含む複合ビル「センテラス天文館」として「転生」した。この「親しまれた場所が一度失われ、新たな姿で帰ってくる」という物語が、鹿児島の視聴者のあいだで前提知識として共有されている――この点をまず押さえておきたい4。
6.1 二つの「ただいま」――意味の層と投錨
図3は、映像の再現として筆者が生成 AI で作成したCM の構図である。桜島と市街地を背景に、画面のやや右に上白石さんが立つ。談話はほぼすべてが視聴者に向けた彼女の「語り」で、大きな動作はほとんどなく、終盤にナレーションに合わせて画面左下に「はじめまして。そして、ただいま。」のコピーがフェードインする。この語りは一見ひとつづきの独白だが、機能から見れば表1のように台詞1、ナレーション1、台詞2(a・b)、ナレーション2 の四つに分かれる。ここで「台詞」と呼ぶのは、視聴者に向けた地の語り(ナレーション)の流れのなかに置かれつつ、物語世界のなかでは登場人物の挨拶(帰宅・初対面)として機能する発話のことである。本来は、言語変異が指標する社会的意味が、映像・音声・所作といった文脈のなかでどのように立ち現れ、前景化するのか、さらにはそれを通じて CM 全体が何を表象しているのかまでを、総合的に(マルチモーダルに)読み解くべきであるが、ここでは、冒頭と終結部の二つの「ただいま」の音声(語アクセント)に的を絞って論じることにする。
「ただいま」は、「既知」の間柄を前提に帰宅の挨拶を遂行する感動詞(間投詞)だが、もともとは「発話しているまさにこの瞬間」を指し示す直示(ダイクシス)の表現だったと考えられる。直示は、「ここ」「いま」のように、発話の場との現実のつながり——隣接性——にもとづいて対象を指し示す。対象との事実的なつながりによって対象を指すこの働きは、パースのいう指標(index)の典型である。
このような「ただいま」の働きは、いくつかの意味の層に分けて捉えることができる。何かを指し示すという直示の層でも、帰宅の挨拶を遂行する発話行為の層でも、ただいま①と②は変わらない。両者が分かれるのは、もう一つの層――話し手や場面についての社会的情報を指し示す、指標的意味の層においてである。そして、①と②を分けるのは、音声的変異としてのアクセントである。アクセントは何かを「述べる」のではなく、発話の主体・文脈・関係についての社会的情報を「指し示す」。本節が注目するのは、この指標的意味の層である。
図3
センテラス天文館CMの構図(生成AIによるイメージ)

表1
センテラス天文館 CM 談話の構造
| 構造 | 語り(テクスト) | 言語コード |
|---|---|---|
| 台詞1 | ただいま(ただいま①) | 標準語 |
| ナレーション1 | 等身大でいられる場所がある | 標準語 |
| そこで新しい何かに出会ったら | ||
| ほんの少しの自分の変化にも気づけると思う | ||
| 明日はどんな私だろう | ||
|
台詞2a 台詞2b |
はじめまして |
標準語 ↓ 鹿児島方言 |
| そして | ||
| ただいま(ただいま②) | ||
| ナレーション2 | センテラス天文館 | 標準語 |
| 4月9日 | ||
| グランドオープン |
この社会的情報を指し示す働きは、投錨(谷島, 2025)の概念を用いてさらに細かく捉えられる。2節で見たように、投錨には、指示の基点となる「いま・ここ・わたし」に関わるもの(指示指標的投錨)と、社会関係の場における立ち位置に関わるもの(社会指標的投錨)の二つがあった。本稿でもこの二つがともに問題になる。
まず指示指標的投錨についてである。挨拶の「ただいま」では遂行的な側面が前面に出るが、この語にはなお、発話の場の「いま・ここ・わたし」を指し示す直示の働きが残っている。この働きは、「いま・ここ・わたし」を定める基準点、すなわち原点(origo)に結びつけられてはじめて、「誰がどこへ戻ったのか」を具体的に指し示す。
ふつうの発話なら、原点は実際に話している話し手と場面に定まる。ところが、このCMの語りには仕掛けがある。一人の語り手(上白石さん)が、あるときは自分自身として、あるときは施設の声として語るのである。そのため「わたし」は一人に定まらず、原点も一つにならない。結果として、ただいま①は上白石さん自身の帰郷へ、ただいま②はタカプラの帰還へと、それぞれ別の原点に投錨される。語り手が立場を替えながら語るこの仕掛けそのものについては、6.3で改めて論じる。
6.2 アクセントは何を指し示すか――指標の秩序と指標の場
二つの「ただいま」のアクセントの差が関わるのは、もう一方の投錨、すなわち社会指標的投錨である。まず、その音声的差異を確認しておく。図4は二つの「ただいま」のピッチを描いたものである。標準語アクセント(ただいま①)は第二モーラ「だ」でピッチが上昇し、その高さが保たれるいわゆる平板式である。一方鹿児島方言アクセント(ただいま②)は、最終音節が上昇する B 型であり、ピッチは「ま」の直前まで低く一定で、最後に一気に上昇する5。人間の聴覚に近い結果を示すことができるセミトーン(st)で示すと6、句末の上昇は標準語が約2.3 st、鹿児島方言が約二倍の4.7 stである。CMの想定視聴者である鹿児島方言話者にとっては、この音響的・音韻的差異は十分に弁別可能である。つまり、変異は「気づかれうる」水準にあり、社会的意味を担う記号として機能する前提は満たされている。
図4
二つの「ただいま」のピッチ

では、この方言アクセントは何を指し示すのか。先に見た指標的意味の層は、Silverstein(2003)の指標の秩序(または指標の階層性、indexical order)に従えば、さらに複数の次数(order)をなして積み重なる。このB型アクセントは、最も基底的な次数(n次)では「この話者は鹿児島の出身だ」という地理的出自を指し示す。だがこの一次的な指標は、地域や方言をめぐる言語イデオロギーを経て、より高次(n+1次)へ読み替えられる。そこではアクセントは出自の標識を超えて、土地への帰属や親しさ、本物らしさといった情緒的・関係的な含意を帯びる。こうした含意は一つに定まるものではなく、互いに関連し合う意味の広がりをなしている。Eckert(2008)の指標の場(indexical field)で言えば、この一つの変異の周りには「地元・郷土・温かさ・気取らなさ・親しみ・素朴さ・身内らしさ」といった意味の布置が広がっており、文脈に応じて、そのどれが前景化するかが決まる。
こうした重層を背景に、二つのアクセントは対照的に働く。標準語アクセント(ただいま①)は、不特定多数へ向けたマスメディアの語りにふさわしい中立的・公的なレジスターを指標し、その中立性ゆえに「帰ってきた」という物語の大枠を淡々と差し出すのに向いている。鹿児島アクセント(ただいま②)は、指標の場のなかから「地元性」や「親密さ」を前景化し、話し手と受け手の社会的距離を縮める方向へ働く。
6.3 フッティングからエンレジスタメントへ――矛盾の解消と意味の循環
次に、この対照が談話上でどのような緊張を生み、どう解消されるかを考える。CM である以上、談話は本来、視聴者に宛てた一対多のメッセージである。しかし、帰宅の挨拶「ただいま」は、見知った個人どうしのミクロな相互行為を想起させる。冒頭の台詞1のただいま①は、誰か(何か)が「戻る場所」へ戻ったことを伝える。上白石さんが鹿児島出身なのは広く知られており、彼女が地元へ戻って「ただいま」と言うことに視聴者は違和感をもたない。こうして冒頭の「ただいま」が物語の大枠を立ち上げる。
談話はナレーション1を挟んで台詞2へ続く。台詞2a「はじめまして」は、参与者間の関係が「新規」であることを前提とするので、ただいま①が導入した「既知」の関係がいったん反故になる。ところが直後のただいま②で「既知」が回復する。ここに台詞1とのあいだの矛盾が生じる。
この矛盾が破綻と受け取られない理由を、Goffman(1981)のフッティング論――とくに実際に声を発する者(animator)と物語世界に描かれる人物像(figure)の区別――で捉えてみたい(中河・渡辺, 2015)。台詞1(とナレーション1)を発するのは上白石さんで、物語内の人物も彼女自身である(animator=figure)。これに対し台詞2では、声を発する animator は依然として上白石さんだが、そこに立つ figure は一つではない。台詞2a「はじめまして」は、新しい姿としての「センテラス」という figure の声、台詞2b「ただいま」は、既知の関係を担って帰る「タカプラ」という figure の声である。両者は「タカプラがセンテラスへ転生した」という枠組みで一つに束ねられるが、声としては区別される。一人の animator が、新旧二つの figure の声を交替させて響かせる――いわば「声の二重化」がここで起きている7。
注目すべきは、この「戻ってきたこと」が鹿児島方言のアクセントで伝えられる点にある。本来、「はじめまして」で新たな関係が結ばれるまで参与者たちは互いに未知のはずだが、直後の方言アクセントによって、両者は単に「知っている」だけでなく、心理的に近い距離をもつ存在として含意される。ここでアクセントは、figure の出自を指標する一次的な機能を超えて、話し手が受け手に取る親密さ・連帯の態度(affective stance)を指標する。標準語アクセントが担えなかった「身内らしさ」を方言アクセントが補い、新規の出会いの儀礼(「はじめまして」)と既知の関係の回復(方言の「ただいま」)を、一つの声のうちに同居させている。方言アクセントは指標の場のなかで多義的な潜在性をもつが、この文脈では、発話は、その指標的な指し示しを話し手と受け手の社会関係に投錨することで、「親密さ」「連帯」が前景化される。発話がこのように自らの指し示しを特定の関係へ錨づけること――これが、先に述べた社会指標的投錨である。
こうした効果が成り立つには、鹿児島方言のアクセントが、視聴者にとって「地元の話者」と結びついた認識可能な「声」としてすでに登録されていることが前提となる。これが、2節 で導入したエンレジスタメント(Agha, 2003)――ある言語形式の束が、特定の人物像や状況に繰り返し結びつけて語られる(メタ語用論的類型化)ことで、社会的に弁別可能なレジスターとして認知・流通していく過程――の、これまでの所産である。CM は、この過程が沈殿させてきた(sedimentation)登録済みのレジスターを資源として引き受け、それに依拠してはじめて、アクセント一つで「地元性」や「親密さ」を喚起できる。図2に照らせば、CM の語り(言語実践)が、資源としての言語構造を引き出して一つのテクストを編む営みである。
しかも CM は、既存の所産に一方的に依拠するだけではない。エンレジスタメントは、ある形式が引用・再文脈化されながら人から人へ受け渡される連鎖(speech chain)を通じて進む。CM もその一つの出来事として過程の内側にあり、登録済みのレジスターを消費すると同時に、自らもその登録を反復・更新し、「B 型アクセント=地元の話者」という結びつきを再生産・強化する8。こうして利用された変異とその意味は、メディア化を通じて循環する。発話連鎖(Agha, 2011)、すなわち記号が人から人へ受け渡されていく連鎖のなかで、変異と意味は、視聴者による解釈や再解釈、模倣、引用、論評を経ながら、メディア空間へと広がり、定着する。指標性が結ぶ形式と意味の対応は、固定した辞書的なものではなく、このような生成と循環のなかで絶えず編み直されていく、動的なものなのである。
6.4 誰のための「親密さ」か――情緒の商品化と言語イデオロギー
ここまでは、方言アクセント一つがいかに精緻な記号論的仕事をこなすかを述べてきた。最後に、ここで動員される「地元性」や「親密さ」は、誰のために、何のために呼び出されているのか、という点から、変異の記号的はたらきを批判的視点から考えてみたい。
上述のとおり、ただいま②の鹿児島アクセントは「地元性」「親密さ」を前景化し、話し手と受け手の距離を縮める。だが忘れてならないのは、この発話が一対一の私的なやりとりではなく、一対多のマスメッセージとして、ある商業施設の開業を告知するために作られている、ということである。本来は見知った者どうしのあいだに事後的に立ち現れるはずの親密さ・連帯の感覚が、ここでは方言アクセントを介して、不特定多数の視聴者と「センテラス天文館」という商品とのあいだに、いわば先取りされている。
このはたらきの核心は、価値の変換にある。地元への帰属感や、故郷に帰ってきたという気持ちは、本来は経済的な価値に還元されない、関係的・情緒的な価値である。ところがこのCMは、「地元の話者」と結びついた登録済みのレジスターを資源として、その価値を商業的な説得力へと変換する。Agha(2003)が「文化的価値の社会的生命」と呼んだ過程――レジスターに担われた社会的価値が商品化され、流通していく過程――が、ここに見てとれる。方言アクセントの「温かさ」は、まさにその温かさゆえに商品価値をもつ。情緒そのものが売り物になるのである。
そうすると、標準語アクセントを「中立的・公的」と呼んだことが、同時に何を意味するのかも問われる。方言が「温かさ」や「身内らしさ」などの有標の価値を担う一方で、標準語が無標で中立的なものとして立ち現れること自体が、地域語と標準語をめぐる言語イデオロギーの効果と言える。この CM は、その非対称的な価値づけの上に成り立ち、同時にそれを再生産している。地域語が「情緒・親密さ」の担い手という位置を割り当てられ続けるかぎり、その情緒は繰り返し商品として呼び出されうる。
さらに、この商品化が作動する社会的文脈も見落とせない。センテラスは、人びとに長く親しまれた場所であるタカプラが再開発で失われ、新たな複合ビルに建て替えられた施設である。「親しまれた場所が一度失われ、新たな姿で帰ってくる」という「転生」の物語は、この喪失と建て替えを、温かな「ただいま」の出来事として語り直す。方言アクセントが与える真正性の効果は、その語り直しに「本物らしさ」の感触を添え、かつての場所への愛着が新しい施設へと途切れず引き継がれていくかのような連続性の感覚を生む。こうして、失われたものへの愛着が、それを失わせた当の再開発を肯定的に意味づける資源として動員されることになる。
もっとも、これを一方的な「操作」や「欺瞞」と断罪するのは本稿の意図ではない。受け手はメディアの表象を受動的に受け取るのではなく、自分の文脈に引きつけて解釈し、評価し、ときに読み替える(uptake)。視聴者の多くにとって、この「ただいま」はおそらく素直に心地よく響くだろうし、その心地よさ自体が否定されるべきものではない9。強調したいのは、個々の制作者の意図でも受け手の素朴さでもなく、地域語に結びついた社会的意味が商品として流通しうるという仕組みそのものである。そして、社会的価値を商品へと変換するこの仕組みこそが、図1の循環――社会的意味の生産・流通・固定化、そして更新――を駆動する一つのエンジンにほかならない。メディアが言語の社会的意味を生産・流通・固定する場であるということは、それが社会的価値を商品へ変換し、循環させる場でもある、と言える。
7. おわりに
本稿は二つのことを目的とした。第一は、記号システムとしての言語変異が、メディアを介してどのように社会的意味を生産・流通・固定し、さらに更新していくのか、その仕組みを描き出すこと。第二は、その仕組みが人と社会にとって何を意味するのかを、地元性の商品化という問題に焦点を当てて、批判的に問うことだった。
第一の目的については、2節で道具立てと循環モデル(図1)を示し、3節と4節で二つの研究の系譜――「社会的意味は実践のなかに立ち現れる」という変異研究の展開と、「メディアは言語を変えるか」という論争から「社会言語学的変化」への組み替え――をたどってその理論的な基盤を固め、5節と6節での鹿児島のローカルCMの分析を通じて具体化した。CMの分析は、二つのことを示した。第一に、たった一つの語アクセントの選択が、幾層もの記号論的仕事を同時に担いうることである。それは発話を話し手と受け手の社会関係へと投錨し(社会指標的投錨)、指標の場のなかから「地元性」「親密さ」を前景化し、すでに登録されたレジスターを資源としつつ、自らその登録を更新すること、第二に、それがフッティングの切り替え――animatorは一貫しつつ、figureが上白石さん自身から新旧二つの施設の姿へと替わること――と連動して、「いま・ここ・わたし」の原点を組み替え、それらを一つの声に束ねていることである。この一連のはたらきは、図1の循環モデルが具体的な出来事として作動する、その現場を示している。フッティングの切り替えも、その循環のただなかで生じた現象であった。
第二の目的については、6節の終わりで、この記号論的な仕組みが、地元への帰属感という関係的価値を商業的説得力へ変換する――地元性を商品化する――過程として読み直せることを示した。本来は私的なやりとりに属する親密さ・連帯の感覚が、方言アクセントを介して不特定多数の視聴者と一つの商業施設との関係へ差し向けられ、しかもそれが、再開発による喪失を「帰還」の物語へ語り直す資源として機能していた。メディアが言語の社会的意味を生産・流通・固定する場であるとは、それが地域語に担われた社会的価値を商品へ変換し、循環させる場でもある、ということである。
残された課題としては、音声(アクセント)に加え、映像・文字・音楽を含むマルチモーダルな相互作用の分析、視聴者の uptake の実証的検討、地元性の商品化が地域社会の自己像にもたらす長期的な帰結の検討などが考えられる。
註
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太田一郎(おおた いちろう)
1959年福岡県生まれ。専門は社会言語学。1988年鹿児島大学教養部助手に着任、1997年法文学部助教授に配置換えののち、2003年法文学部教授。現在鹿児島大学名誉教授。1990-1992年エセックス大学(英国)で在外研修。主な著書・論文等に『生きたことばをつかまえる』(翻訳)(松柏社)、『方言学』(朝倉書房)、『はじめて学ぶ社会言語学』(ミネルヴァ書房)、「The media influence on language change in Japanese sociolinguistic context」、「メディアの中の方言 : テレビドラマのコードスイッチング」、「Sociophonetics and Japanese」など。
書誌情報
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掲載誌:MEDIA, ENGLISH AND COMMUNICATION, No. 16 (2026, pp. 1-19) 発行元:一般社団法人 日本メディア英語学会 表 題:メディアとことばのバリエーション 著 者:太田 一郎(鹿児島大学) 要 約:本稿は、メディアを介した言語のバリエーションが、いかに社会的意味を生み、循環させるのかを記号論的に論じ、その仕組みをふまえて「地元性の商品化」という問題を批判的に検討する。まず、指標性・投錨・エンレジスタメント・メディア化を道具立てとして、社会的意味の生産・流通・固定・更新を捉える循環モデルを示す。続いて、変異研究において「社会」が実践のなかに立ち現れるものとして捉え直されてきた系譜と、「メディアは言語を変えるか」という論争が「社会言語学的変化」へ組み替えられていく過程をたどる。それらを踏まえて、鹿児島の複合商業施設のローカルCMを分析する。このCMの「ただいま」という一語は、標準語アクセントと鹿児島方言アクセントのいずれを選ぶかによって、幾層もの記号論的なはたらきを同時に担う。すなわち、アクセントの差が、発話を話し手と受け手の社会関係へと投錨して「親密さ」を前景化し、それがフッティングの切り替えと連動することで、帰郷する出演者と再開発で生まれ変わった施設という二重の像を、一人の語り手の声に重ねる。この一連のはたらきを通じて、関係的・情緒的な価値が商業的な説得力へと変換される。それは誰のための「親密さ」なのか――本稿は、この問いのもとで、情緒の商品化の問題を論じる。 キーワード:変異の記号論的分析,エンレジスタメント、メディア化、社会言語学的変化、変異の商品化 論文カテゴリー:基調講演 CCライセンス:CC BY-NC 4.0 執筆言語:日本語 受理日:2026年6月30日 © 2026 Ichiro Ota |
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