抄録
本研究は,「出雲大社庁の舎」等の計画で知られる菊竹清訓の伝統論が,1954年から1960年までの間,いかに展開されていたのかを明らかにするものである。対象期間を通じて最も多く見られたのが,〈都市と個人をつなぐ公共空間の確立〉の主張であり,〈民衆の視座への共感〉や,庭のあり方等の〈既存伝統理解への懸念〉を背景に,個人と都市の間をつなぐ公共空間の確立が,同時期の菊竹の活動の主題となっていたことが読み取れる。菊竹の伝統論の主要な論旨と考えられてきた〈機械・技術による伝統改革〉,〈増改築のしやすさ〉,〈構造的一貫性の重視〉に関する内容は1959年以降を中心に見られた。