2021 年 30 巻 1 号 p. 1-17
手話言語は、音声言語が聴覚言語であるのに対して、それとは根本的に異なる性格をもつ視覚言語である。すなわち、それは、画像的な性格を強くもっているのである。実際、この言語の諸表現は、身体によって描き出される画像という形を取るのである。したがって、手話言語は、画像言語であるとも言いえよう。だが、この言語が、こうして画像言語であるのは、いっそう根本的な理由に基づいていると思われる。その理由とは、この言語が、ろう者の遂行する画像思考と一体であるということである。私たちのこれまでの研究で明らかになった限りでは、ろう者は、自らの思考を、手話言語によって、というよりはむしろ、つねに画像によって遂行する。手話言語が画像言語であるのは、第一義的には、それが、ろう者の遂行するこの画像思考と一体であるからである、と考えられるのである。そして、このように手話言語が、画像思考と一体であるがゆえに、画像言語であるということは、哲学的に非常に重要な意味をもつ。というのも、この画像言語は、世界についての感覚的な情報の大部分を占める視覚情報、つまり、画像としての世界(視覚世界)と完全に一体でありうるからである。こうした一体性は、音声言語にはおよそ求めることはできないのである。 このようにして、これまで私たちは、手話言語は、ろう者の遂行する画像による思考(画像思考)と一体であるという意味で画像言語であるということ、また、こうした手話言語において、私たちに与えられる視覚世界との一体性が成立し、それが哲学的に重要な意味をもちうるということを、主題的に論じてきた。だが、こうした論議に対して、このたび、佐々木倫子氏より、包括的な観点からの疑義が提示された。それは、次の4点からなる。1.ろう者の思考は本当につねに画像思考であるのか。2.ろう者と同様に、聴者も画像思考を行なうのではないか。3.手話言語は、本当に画像思考と一体なのか。4.音声言語においても、視覚世界との一体性は成立しているのではないか。 この疑義に応えることにおいて、新たに手話言語における画像性の意味を捉え返したい。