Journal of Computer Chemistry, Japan
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電子を描く(2) ― 確率の雲の正体
時田 澄男
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電子付録

2015 年 14 巻 1 号 p. A6-A10

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Abstract

水素原子のなかの電子を描くいろいろな手法を比較した.電子の存在確率をガラスブロック内に実3次元で彫刻する方法における確率の雲(電子雲)の物理的意味を,確率密度の分布図を描くことにより説明した.

1 はじめに

前回は,古典力学による軌道 (orbit) と,量子力学による軌道 (orbital) の違いに焦点を当てて解説した [1].日本語訳はどちらも「軌道」となって紛らわしいが,前者は,電子を単に「粒子」と考えたもの,後者は,「波動性を持つ粒子」として正しく取扱ったものであった.

波動性を持つ粒子としての電子は,検出すると点状(粒子)であるが,その位置は不確定である.ただ,どの位置に検出され易いかという確率密度は計算できる.その確率密度を立体物の中に表示すれば,雲のように見える.厳密には,電子は雲のようなものではないが,便宜上,これを電子雲と呼ぶ.

今回は,この「確率の雲」の正体を,確率密度の分布図を描いて調べる方法を説明する.原子軌道またはその平方の描き方として,これまでに,いろいろな方法が報告されている [2,3,4,5,6,7,8,9,10].これらを紹介しながら,確率の雲(正しくは確率密度)とは何か,その正体にせまろうという趣向である.

気楽な読み物とするために,本文には原子軌道の数式は記していない.軌道の可視化の具体的方法とともに,その詳細は,電子付録として添付した.

2 原子軌道(1s)の形

水素原子の中の電子の最も安定な軌道を1s軌道という.Figure 1に,1s軌道の形を示すために工夫されたいろいろな表現法を示した.

Figure 1.

 Shapes of hydrogen 1s atomic orbital: (a) probability densities; (b) isosurface (3-dimensional sculpture); (c) isosurface (2-dimensional picture with shading); (d) isosurface (2-dimensional picture by mathematica)

Figure 1 (a) は,1s軌道のガラス内彫刻である.前回は球形ガラスを用いたものを紹介した [2] が,今回は,立方体内への彫刻 [3] を示した.この方法では,1s軌道の1個の電子を何万回も観測したときの電子を見出す確率が,彫刻点の濃度で表される.彫刻された点は無限に近い広がりを有するが,球対称性を保って分布している.Figure 1 (b) は,1s軌道の関数値が等しい点を結んだ面(等値曲面)を,プラスチックの塊を削ることによって表現したものである.東京上野の国立科学博物館に, 2p 軌道や 3d 軌道とともに,2004年から展示されている [4].このように,原子軌道というものは,3次元的な広がりを持っている.Figure 1 (a)Figure 1 (b) は,この3次元的なものを,実際に3次元で表現しているという意味で,きわめてユニークな表示法となっている.しかし,それらの製作には,コンピューターによる計算,彫刻用部材や彫刻機の手配など,手間や費用がかかる.もっと手軽にコンピューターのみで等値曲面を描く方法として,Figure 1 (c) や,Figure 1 (d) がある[5, 6].コンピューターのディスプレイは2次元なので,3次元らしく見せるために,陰影付けや,補助線を使う方法で補っている.等値曲面というのは,原子軌道の関数値が等しい点からなる面であり,s軌道では,その形は球となる.等値曲面はまた,その面の内側に含まれる電子の確率密度の総和が,たとえば,90%になる面という風に定義することもできる.しかし,Figure 1 (b), (c), (d) では,この境界面の内側や外側の確率の変化の情報はまったく観察することができない.Figure 1 (a) のガラス彫刻においては,内部において確率が大きい部分があることや,周辺部にもほとんど無限に確率の分布が広がっていることが明瞭にわかるという特徴がある.

3 原子軌道断面の関数値の表示

等値曲面では描けない内部の様子や周辺の広がりを簡便に描くには,Figure 2のように,断面図を用いる方法がある.Figure 2 (a) は,Figure 1 (a) の立体の中心(原子核の位置)を通る断面図である.たとえば,x-y平面上に電子を見出す確率を示している.Figure 2 (b) は,その確率の値(1s原子軌道の平方 χ 1s 2 の関数値)が等しい場所を,等高線の形で描いたものである.同様の図を,mathematica で描く報告もある [7].Figure 2 (c) は,もとの1s軌道に 色を割り振ったもの [8],Figure 2 (d) は,その関数値の大きさを高さ方向に描いて,見取り図のようにしたものである.Figure 2 (d) は,一見,3次元風であるが,1s軌道の形を表すものではない.このため,擬3次元表示と呼ばれる [9, 10].

Figure 2.

 Representations of the function values at the x-y plane of hydrogen 1s atomic orbital: (a) probability densities; (b) contour map of probability densities; (c) contour map of the 1s orbital; (d) pseudo 3-dimentional contour map of 1s orbital

4 電子を見出す確率が大きい場所はどこか

Figure 2 (a) − (d) を見ると,中心部において,電子を見出す確率が最も大きいように見える.これらの図を描く際に元となる原子軌道の数式には,原点(原子核)からの距離 rが含まれている.その単位は,長さの原子単位 auである.電子を見出す確率の大きい場所を調べるために,1s原子軌道の平方 χ 1s 2 の関数値を距離 rの方向にプロットしてみると,Figure 3実線のようになり,中心部(r = 0)で最大となる.しかし,この位置にはプラスの電荷を持つ原子核がある.マイナスの電荷を持つ電子が同じ位置に高い確率密度で重なっているという考えには抵抗があろう.

Figure 3.

 Plot of the probability distribution function χ 1 s 2 (full line) and 4πr2/100 (dashed line) vs. distance from nucleus r.

水素原子の1s原子軌道は,球対称性を有するから,原点からの距離 r が一定の球殻上では,同じ関数値を持っている.この球殻の表面積 4 π r 2 は,Figure 3 破線のように,rの増加とともに,急激に増大する.

Figure 4 は,1s原子軌道の平方 χ 1s 2 に球殻の表面積 4 π r 2 を掛けて,原点からの距離 rに対してプロットしたものである.原子核の位置は rが0であるから,この位置での表面積 4 π r 2 は0となり,電子を見出す確率も0である.

Figure 4.

 Radial distribution function 4 π r 2 χ 1 s 2 vs. r.

電子を見出す確率が最も大きいのは,r = 1 auの場所である.1 au は,0.5292 Å (52.92 pm) である.この長さをボーア半径ということは前回述べた.電子を粒子と考えるボーアの原子軌道モデルは間違いであったが,その革新的な考え方は,量子力学の扉を開くこととなった.その栄誉は,ミクロの世界の基本単位の名称として用いることによって讃えられている.

Figure 3Figure 4の意味するところは,たまねぎの皮の比喩で良く説明される [11,12,13].皮の栄養がFigure 3実線のように,中心で豊富で,周辺では減っていくと仮定する.皮1枚1枚の体積は,Figure 3破線のように,表面積 4 π r 2 に比例し,原点からの距離r が大きくなるにつれて増大する.これらの積 4 π r 2 χ 1 s 2 が皮1枚あたりの栄養の量に相当し,この量は,あるところで最大になる.これがボーア半径に一致しているという説明である.

5 おわりに

波動関数の平方 χ 1s 2 は,1個の電子をある1点に見出す確率を表す.ガラス彫刻に描かれた細かい点(Figure 1 (a))は,電子を見出す確率であり,その密度は原点からの距離rで決まる.したがって,半径rの球殻上の確率密度 4 π r 2 χ 1 s 2 rに対してプロットすれば,その物理的意味を明らかにすることができる.結果は,Figure 4のように,ボーア半径(1 au)のところで最大となった.電子を粒子として取り扱うボーアの計算では,電子はr = 1 au = 52.92 pm のところにしか見出されないが,電子を波動性を持つ粒子と考える量子力学的取扱では,電子はFigure 4のように,いたるところに見出される.したがって,今回紹介したいろいろな表示法の中で,Figure 1 (a) が,電子の最も正しい描像を与えていることになる.ガラス彫刻の特徴は,節面を持つ原子軌道の場合にさらに顕著に現れるが,このことについては,次回以降に記していきたい.

References
 
© 2015 日本コンピュータ化学会
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