Journal of Computer Chemistry, Japan
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総説
経路積分分子動力学法を用いたミューオニウム化分子の理論的解析
大場 優生河津 励立川 仁典
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2020 年 19 巻 3 号 p. 94-98

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Abstract

経路積分分子動力学(PIMD)計算により,ミューオニウム化アセトン分子(Mu-ACE)における超微細結合定数(HFCC)を算出した.アセトン酸素原子とミューオニウム間距離(ROMu)の伸長方向のポテンシャルの非調和性のもとで,ミューオンの大きな量子効果のためにROMuは伸長することが分かった.この際,ミューオンがラジカル電子を奪って中性Mu原子としての配置が出現することにより,HFCC値が増大することも分かった.水素化アセトン分子(H-ACE)に対しても同様な計算を実施しところ,HFCC値の実験値の大小関係を定性的に再現することができた.

1 はじめに

我々のグループでは,「エキゾチック分子系の量子化学」というべき,新たな分子科学の領域を開拓している.具体的には,従来の電子だけでなく,物性研究や医療診断等に応用されている,「陽電子」や「ミューオン」を含むような分子系を計算対象としている.このようなエキゾチック分子系は,従来の量子化学手法だけを用いて計算するのは不可能であり,新しい計算手法を開発する必要がある.陽電子化合物の量子化学計算 [1]に関しては,他稿の解説記事 [2]にゆずることとし,本稿では「ミューオニウム化分子の量子化学計算」 [3,4,5]を紹介したい.

素粒子ミューオンは,火山調査や宇宙の起源探査,荷物検査などに応用されている.ミューオンは,電荷やスピン量子数は電子と同じであるが,質量はプロトンの約1/9 (電子の約200倍)である.そのためミューオンは,プロトンに比べて,より大きな磁気モーメント(磁気回転比136 MHz/T)を持ち,磁場に敏感である.またミューオンの反粒子である正ミューオン(μ+)は正の電荷をもち,Figure 1に示すように1個の電子と強く束縛することで,ミューオニウム(Mu)と呼ばれる一種の原子を形成する.Mu原子は水素原子の軽い同位体とみなせる.正ミューオンは,人工的に生成した場合にスピンの向きが揃っていること(100%スピン偏極)や,寿命(およそ2.2 μs)が化学反応の時間スケールであることなど,分子の磁気測定に有効な性質を有する.そこでこれらの性質を用いたミューオンスピン回転/緩和/共鳴(μSR)法が開発され [6],近年様々な分野で注目を集めている.

Figure 1.

 Image of muonium (Mu) atom composed of a positive muon (μ+) and an electron (e), light isotope of hydrogen atom

分子に正ミューオンを打ち込むと,正ミューオンはラジカル電子を束縛し,ミューオニウム化分子を形成する.このとき分子の内部磁場によって影響を受けたラジカル電子のスピンと,正ミューオンのもつスピンとのカップリングに起因するスペクトル分裂が測定される.この分裂幅は超微細結合定数(HFCC)によって特徴付けられる.これまで様々なミューオニウム化有機分子に対して,μSR法によりHFCC値が測定されてきた.その代表的な例がミューオニウム化アセトン分子(Figure 2,以後Mu-ACEと呼ぶ) [7,8,9,10,11]である.

Figure 2.

 Molecular structures of (a) muoniated acetone radical (Mu-ACE) and (b) hydrogenated acetone radical (H-ACE)

一方,HFCC値の帰属には,分子軌道法や密度汎関数理論(DFT)計算などの量子化学計算が用いられている [11, 12].しかしながら一部のミューオニウム化分子においては,従来の量子化学計算で得られたHFCC値と実験値の間に大きな差異が生じてしまうことが知られていた.実験では,Mu-ACEおよびMuを水素に置換した水素化アセトン分子(H-ACE)に対するHFCC値(水素磁気モーメント換算)は,約300 Kにおいてそれぞれ8.6 MHz,0.9 MHzと報告されている [9, 12].一方で,先行研究のDFT計算では-5.8 MHzであり [12],DFT計算による計算値は実験値の符号すらも再現できず,そもそもMu-ACEとH-ACEのHFCC値を区別することが不可能である.そこで我々は,熱揺らぎの効果だけでなく原子核の量子効果も直接計算に取り込むことができる,経路積分分子動力学(PIMD)法を用いて,Mu-ACEの計算を実行した.またMu-ACEとの比較のためH-ACEの計算も行い,これら分子系のHFCCの発現機構を解析した.

2 計算手法と計算詳細

2.1 経路積分分子動力学法の紹介

本記事では経路積分分子動力学(PIMD)法の概要のみを説明することとし,詳細は他書 [13]にゆずる.経路積分法では,分配関数は(1)式で表される.   

Zi=1N{(miP2πβ2)3P/2s=1Pdri,s}exp(βVeff),Veff=s=1P{i=1N12κi(ri,s+1ri,s)+21PU(r1,s,r2,s,rN,s)},(1)

ここでri,si番目の量子粒子におけるs番目のビーズの位置を,ßは逆温度,mii番目の量子粒子の質量,Pはビーズ数,またκimiP/β22でありビーズ間のバネ定数を表す.粒子間では同じ番号sのビーズとのみ相互作用(U)する.すなわち(1)式は,N個の量子粒子それぞれを,調和振動子によって相互作用し合うP個のビーズで展開した,N×P個の古典粒子からなる環状の鎖とみなすことができる.また(1)式の分配関数を用いて,物理量の期待値を(2)式のように評価することができる.       (2)   

2.2 計算詳細

PIMD法における各ステップのポテンシャルおよびポテンシャル勾配の計算にはGaussian09[14]を用い,計算レベルはO3LYP/6-31+Gとした.温度は300 Kとした.PIMD法におけるビーズ数(および時間刻み)はMu-ACEとH-ACEに対し,それぞれ64 beads (0.04 fs),16 beads (0.1 fs)とした.またサンプリングに用いたstep数はそれぞれ95,000 stepとした.

O3LYP/6-31+Gによる構造最適化計算(平衡構造)をH-ACEEQ,H-ACEの古典MD計算をH-ACECL,H-ACEのPIMD計算をH-ACEQM,およびMu-ACEのPIMD計算をMu-ACEQMと表記することにする.なお,構造最適化計算と古典MD計算は,原子核の量子効果を取り込めない計算であるので HとMu の区別が無い.

ミューオンの磁気モーメントはプロトンよりも大きいため,ミューオンの方がより大きなHFCC値となる.本記事ではプロトンとミューオンのHFCC値を等価に比較したいため,ミューオンの磁気モーメントをプロトンの磁気モーメントに換算して算出したreduced HFCCをHFCC値として表すことにする.

3 結果と考察

量子効果が分子構造に与える影響を調べるために,Mu近傍の構造パラメータ,酸素-ミューオニウム/水素原子間結合長 (ROMu, ROH*) の一次元分布をFigure 3に示す.古典MD計算によるH-ACECLは,熱揺らぎの効果によりH-ACEEQに比べて分布が広がっていることがわかる.またH-ACEQMやMu-ACEQMは,H-ACECLに比べてより分布が広がり,また結合長の期待値も増大することが分かる.特にMu-ACEQMにおいては結合が伸張する方向へ顕著なブロードニングが見られるが,これは結合方向のポテンシャルの非調和性のもとで,水素原子核や正ミューオンの量子効果のためである.

Figure 3.

 One-dimensional distributions of ROMu and ROH*

次にHFCCの期待値を評価した.平衡構造でのHFCC値は-8.2 MHzであり,序論で述べたように,Mu-ACEの実験値8.6 MHzおよびH-ACEの実験値0.9 MHzを再現できていない.ここに熱揺らぎを加えた古典MD計算を行うと,HFCCの期待値は0.3 MHzとなりH-ACEの実験値に大きく近づくことが分かった.しかしこの手法ではMu原子とH原子の区別ができないため,Mu-ACEのHFCC値はH-ACEのHFCC値と同じ値になってしまう.そこでPIMD計算を行うと,Mu-ACEおよびH-ACEのHFCCの期待値はそれぞれ32.1 MHz, 4.0 MHzとなり,実験値の大小関係を定性的に再現できることが分かった.このようにPIMD法はミューオニウム化アセトン分子のHFCC計算に有効であることが分かる.

HFCCの発現機構を調べるために,結合長(ROMu, ROH*)とHFCC値の二次元分布をFigure 4に示す.Mu-ACEの結果に着目すると,結合長ROMuの長い領域において,ROMuが伸長するほどHFCC値が大きくなる正の相関があることが分かった.一方でH-ACEの結果に着目すると,その正の相関がほとんど見えないことが分かった.これは水素原子の量子効果のほうがMu原子の量子効果よりも小さいために,ROH*がMu-ACEの場合ほど伸長しなかったためであると考えられる.すなわち,Muのより大きな量子効果により結合長ROMuROH*よりも伸長し,それにより大きなHFCC値をもった構造分布を持つようになるためである.

Figure 4.

 Two-dimensional distributions of (a)ROMu and HFCC for Mu-ACE and (b)ROH* and HFCC for H-ACE

ではそもそも,なぜ結合長ROMuが伸長するとHFCC値は大きくなるのだろうか.そこでFigure 5にMu-ACEに対するROMuとMulliken電荷の2次元分布を示す.これより結合長ROMuの伸長に伴い,ミューオン上の電荷がゼロに向かって減少していくことが分かる.これはアセトンからミューオンが解離して行く際に1個の電子を伴っていることを意味している.すなわちMu原子としての中性解離により,ミューオンスピンと電子スピンのカップリングが大きくなるためにHFCC値が増大する.これが結合長ROMu伸長に伴ってHFCC値が増大する理由である.

Figure 5.

 Two-dimensional distribution of ROMu and Mulliken charge on Mu for Mu-ACE

4 結論

ミューオニウム化アセトン分子(Mu-ACE)および水素化アセトン分子(H-ACE)に対して経路積分分子動力学(PIMD)計算を行うことにより,HFCC値の実験値の大小関係を定性的に再現することができた.Mu-ACEにおいては,ROMu伸長方向のポテンシャルの非調和性のもとで,ミューオンの大きな量子効果のためにROMuは伸長することが分かった.この際,ラジカル電子をミューオンが奪って中性Mu原子としての配置が出現することにより,HFCC値が増大することも分かった.これらが,Mu-ACEのHFCC値がH-ACE のHFCC値よりも大きくなる機構である.

このように,温度や量子効果によって複雑に変化するミューオニウム化分子の分子構造と電子状態は,PIMD法によって初めて明らかにできたと言えるであろう.一方で,このような高精度手法を用いても,まだHFCC値の計算値は実験値と定量的には一致していない.これは本PIMD計算に溶媒効果を取り入れていないためであると考えている.

今後ミューオンを用いたμSR測定はより身近なものとなるであろう.μSR測定によりミューオニウム化分子に関する知見が蓄積し,より大きな分子やポリマーなどを容易に測定・帰属ができるようになれば,科学に眠る未知なる宝箱を拓くことになるであろう.ミューオン科学の今後の発展が楽しみである.

謝辞

The present study was supported by a Grant-in-aid for Scientific Research by the Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology, Japan (KAKENHI, Grant No. 15KT0067, 18H01945, 19H05155, and 19H05063). This work was supported by Computational Materials Science Initiative (CMSI), Japan. A portion of these computations was performed at the HPCI system provided by Research Institute for Information Technology, Kyushu University through the HPCI System Research Project (Project Nos. hp140013 hp160064, hp170042, and hp190064), and at Research Center for Computational Science (RCCS), Okazaki. We also appreciate scholarships of "Masters 21" and "Doctors 21" provided by Yoshida Scholarship Foundation.

参考文献
 
© 2020 日本コンピュータ化学会
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