Journal of Computer Chemistry, Japan
Online ISSN : 1347-3824
Print ISSN : 1347-1767
ISSN-L : 1347-1767
巻頭言
2020秋季年会を終えて
上田 岳彦
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2020 年 19 巻 4 号 p. A19-A20

詳細

2020年は特別な年でした.COVID-19の全世界的流行が加速し,その勢いに既存の社会システムが全く適応できない姿をいやという程見せつけられました.治療薬やワクチンの開発に悠長な時間を掛けてはいられないのに,我々科学者は一体何をしているのか?社会の期待を裏切り続けているのではないかという自責の念と無力感は,一方で安全や安心を担保しつつ,人命や環境に対して不必要な危険を決して冒さないという科学者の倫理感とせめぎあい,その結果,慎重すぎて曖昧にしか聞こえない科学者の言葉がただ繰り返されるだけのようにも感じられました.

しかし科学は立ち止まりませんでした.多くの学会が手探りで通信環境を整備し,科学者の活動や討論の場を確保し,成果を検討し合い研究を相互に高め合う機会を確保しました.このことは,社会への貢献に前向きであり続けようとする科学者の決意を示すものだったのではないでしょうか.完全オンラインで開催された2020年秋季年会はまさに,実行委員会にとっても参加者の皆様にとっても不慣れでほとんど未経験の中,例年に劣らず充実した数々の講演を,ある意味ぶっつけ本番で成し遂げた決意の秋季年会でした.ご協力・ご尽力いただきました皆様に本当に厚く御礼申し上げます.

そんな中,2020年は私にとって,計算化学分野に感じるある気になる面を再考する年でもありました.計算化学は化学一般に活用されるだけでなく,広く不安定なもの,危険なもの,あるいはごく稀なものや現象に対する研究にも活用され,その最近の成果は医療や福祉にも広く応用されています.一方で長い間,漠然とではありますが,計算化学は完璧な再現性を持った確固とした方法論を持っているものとして信頼され,疑問があったり再確認が必要なときはいつでも完全に同じ方法で再計算できるし,ある意味同じデータから出発すれば同じ結論が出て当たり前という捉え方も広まっていました.特に初学者や学生が計算化学を行う場面では,ほとんどブラックボックス化したアルゴリズムの権化ともいうべきソフトウェアをどう操るか,というようなものになってしまっている気がします.しかし2020年はまた,そのような捉え方に警鐘を鳴らす年でもあったようです.

ソフトウエアを開発し,または既存のものを駆使して計算化学を行う上で,その研究の「再現性」が影響を受けている,という指摘を見たのはCoudertの記事[1]が最初でした.確かにちょっとした間違いで計算結果が全くデタラメになることは何度も経験してきましたが,デタラメであることも含めて結果はよく再現しましたので,少し虚を突かれた印象を受けました.その後,Gromacsのある設定を選ぶとバージョンによって結果に何オーダーも異なる誤差を与えてしまうというHessの指摘[2]を見て,あれ大丈夫だったかな,と不安が募りました.つまりバグのあるバージョンだったんでしょ,で済ませられればいいんですが,そのときの論文の成果はその後再現しないことになってしまいます.後から訂正するのか,古い論文の成果は忘れてくださいと宣言するのか,どうすれば適切な対処なのか,という不安です.そういえば他人の論文を再現しようとGitHubに公開されたコードを取り寄せて使うと,論文に出てくる分子の計算例だけまともに動いて,別の分子で実行するとSyntax Error!というようなひどいことも経験しましたので,あとは野となれ,というような研究姿勢の論文も相当あるのかもしれません.計算化学分野での再現性の担保についてジャーナルがその方法を示すべき[3],という意見もあります.

私の研究分野では,古いFORTRAN77コードを現代風に書き換えて使っていますが,実験結果に合うかどうかは検証しても,古いコードが出した当時の計算結果を再現できるのかという検証はしていませんでした.かつての素朴な信念に従えば,1970年代の論文の結果と同じ計算結果が出てこそ当時の結果は再現されます.このような観点から,「10年以上前の論文の結果を今でも再現できるか」というチャレンジをした結果を蓄積するオンラインジャーナル[4]があります.2020年はその結果が活発に投稿され,MATLAB/Julia [4b], FORTRAN77/Java/Python2 [4c], Numerical Python [4], Mathematica [4e]などの古いコードを現代的な計算環境で走らせる工夫と結果が報告され,計算化学が再現性を保つための新たなスキルが蓄積され始めています.

このような流れから,2020年は計算化学分野での「再現性」をどう維持するかということに一般の研究者からの注目が集まり始めた年だと言えます[5].コードの誤り,最適化の効果,数値計算誤差の蓄積の仕方の違い,ライブラリルーチンの変化など様々な理由で,同じコードであっても計算環境が異なると結果が影響を受ける可能性があります.我々の2020年の研究成果は再現性を有しているのでしょうか.計算化学の進歩を止めないために開催された2020年秋季年会でしたが,そこで終わりではありません.私は,そこで発表されたすばらしい成果の数々が10年後も変わらず同じ結果を再現するような確固としたものであり続け,普遍的な知見となることを期待しております.

参考文献
 
© 2020 日本コンピュータ化学会
feedback
Top