Journal of Computer Chemistry, Japan
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速報論文 (Selected Papers)
ヘモグロビンのアロステリック制御に関するデータ科学的研究 ‒四次構造変化に対する塩素イオンの役割‒
田中 美帆高橋 由芽高見 慧北村 勇吉長岡 正隆
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2021 年 20 巻 3 号 p. 97-99

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Abstract

In this letter, we investigated the contribution of bridging hydrogen bonds (BHB) via Cl on the T-R transition of human adult hemoglobin (HbA). We applied the time-series clustering method to time-series data of the αβ dimer rotation angle φ and the total number of the BHBs. Compared with the above two results, we have concluded that Cl-BHBs do not significantly contribute to the structural regulation of HbA.

Translated Abstract

In this letter, we investigated the contribution of bridging hydrogen bonds (BHB) via Cl on the T-R transition of human adult hemoglobin (HbA). We applied the time-series clustering method to time-series data of the αβ dimer rotation angle φ and the total number of the BHBs. Compared with the above two results, we have concluded that Cl-BHBs do not significantly contribute to the structural regulation of HbA.

1 はじめに

ヒト成人ヘモグロビン(HbA)(α2β2グロビン鎖四量体)は,酸素(O2)や血中に共存するエフェクター分子の濃度に依存して酸素運搬機能が調節されている [1,2,3].X線構造解析 [1]から,HbAの立体構造にはO2結合親和性の異なる2状態(T状態とR状態)が存在することが分かっており,一般的には,ヘムへの酸素分子結合を引き金としたT-R二状態間遷移によって制御されるという"部位特異的"アロステリック制御機構で説明されている [1, 3].近年,分子動力学(MD)シミュレーションを用いた理論研究 [4, 5]のデータに,(1)時系列クラスタリング法を適用することで,T-R遷移をしたトラジェクトリ(以後TrajT-Rと表記)を自動的に特定することが可能となり [5],(2)溶存O2のHb内部への進入自体が誘発する立体構造変化に基づくT-R遷移の分子機構("非部位特異的"アロステリック制御機構 [4, 5])が明らかになってきた.一方,O2とは逆の寄与をするネガティブエフェクターである塩素イオン(Cl)については,それを含む結晶構造が得られておらず詳細な機構は明らかとなっていない [2, 3].これまで,Clのアロステリック制御機構として,サブユニット間の架橋水素結合(Bridging Hydrogen Bond, BHB)形成(Figure 1) [1]や中央空洞を形成する残基におけるClイオンによるT状態安定化 [2]などが議論されてきたが,本研究では,BHB形成に焦点を当てて,HbAの構造制御に果たす役割を調査した.

Figure 1.

 Snapshot of BHB with inter-subunit residues and Cl [1].

2 方法

2.1 モデル系と計算概要

T状態HbAの結晶構造(PDB ID:2DN2 [6])を初期構造とし,酸素あり"(+)O2"・酸素なし"(−)O2",および3種類のCl濃度条件 (5, 140, 1000 mM)から,計6つのモデル系を作成した(Table 1).溶媒には,TIP3P水溶媒モデルを用い,シミュレーションボックスには,直方体モデルを採用した.その後,イオン(K+またはCl)の初期原子座標を30回ランダム化し,各系でイオンの初期位置が異なる独立した30個の初期原子座標を得た.さらに,HbAの構造を固定した状態で平衡化を行った後,拘束なし条件の100nsのMDシミュレーションを計180本実行した(合計18μs).これらのMDシミュレーションは,AMBER 16 [7]のGPU高速版のpmemdにより実行された.

Table 1. T-R transition ratios under different Cl and O2 concentrations. It was determined from the time-series data of the rotation angle φ defined by αβ dimers.
SystemT→R transition ratio
(+)O2(−)O2
5 mM89.7%46.7%
140 mM36.7%23.3%
1000 mM30.0%3.3%

2.2 Cl-架橋水素結合

異なるサブユニットの残基間をClが架橋する水素結合を,架橋水素結合(BHB)と同定し,トラジェクトリ解析プログラムcpptrajを用いて,r(N…Cl) < 4Åかつ135° < θ(N-H-Cl) < 180°のカットオフ条件に基づき定義した.ただし,サブユニット内で形成される水素結合は含めずに,全6 (=4C2)パターンのサブユニット界面におけるBHB数をそれぞれ求め,それらの総和(BHB総数)を時系列解析に用いた.

2.3 時系列クラスタリング法

これまで,T状態とR状態を定義するパラメータとしてαβ二量体間の回転角(Dihedral Angle, DA)φがよく用いられてきた [4].我々は,φを用いて,PythonパッケージTslearn [8]に実装された時系列クラスタリング法Soft-DTW法を応用したTrajT-R自動判別法を開発してきた [5].本研究では,T-R遷移に対するCl-BHBの寄与を調べるために,HbAのサブユニット界面で形成されたBHB総数の時系列データに対しても時系列クラスタリング法を適用した.このとき,各スナップショットで算出されたBHB総数を,1nsごとに区間平均した計100点のデータを,時系列データとして用いた.回転角φとBHB総数のそれぞれの特徴量に基づき,トラジェクトリを二種類のクラスタに分類した.

T-R遷移と架橋水素結合(BHB)との相関を調べるために,それぞれに基づいたトラジェクトリのクラスタリング結果を比較した.二量体回転角φに基づいたクラスタリングによってクラスタX(X=RあるいはT)に分類されたトラジェクトリの集合をDAXと表し,BHB総数に基づいたクラスタリングによってクラスタY(Y=LあるいはH)に分類されたトラジェクトリの集合をHBY と表す(記号R, T, L, Hについては「3. 結果と考察」を参照).全トラジェクトリのうち,XYに同時に分類されたトラジェクトリの割合P(DAx HBY)を   

P(DAxHBY)=n(DAxHBY)ntot×100 (%)(1)
と定義した.ここで,n(DAxHBY)は積集合の要素数,ntotは全トラジェクトリ数を示す.さらに,T-R遷移とBHBの相関の度合を示す指標RXYを   
RXY=P(DAXHBY)5050(2)
と定義した.RXYは−1から1の値をとり,1に近いほどXYの間に高い相関性を有することを意味する.

3 結果と考察

Table 1に,異なるCl濃度条件でのTrajT-Rの割合をまとめた.この結果はCl濃度上昇に伴ってT-R遷移が抑制されるという実験結果 [1,2,3]を再現しており,今回のモデル系がClのT-R遷移制御を調査する上で妥当であることを示す.

次に,BHB総数に基づいた時系列クラスタリングの結果,平均的にBHB総数が異なる2種類のクラスタHBYに分類された(Figure 2).BHB総数が少ないクラスタを"Cluster-L"(Figure 2 破線赤),BHB総数が多いクラスタを"Cluster-H"(Figure 2 実線黒)と命名した.各クラスタの平均BHB総数は,Cluster-Lでは0.109 ns−1であったのに対し,Cluster-Hでは0.354 ns−1となり,Cluster-Lに比べて約3倍程度多くの水素結合が形成していた.

Figure 2.

 Time dependence of the number of BHBs. Cluster-L and Cluster-H classified by time-series clustering based on the number of BHBs. The centroids of these clusters are shown by red lines for Cluster-L and blue lines for Cluster-H.

BHBがT-R遷移のアロステリック制御に関与していると仮定すると,Cluster-Rに分類されたトラジェクトリの多くはCluster-Lに分類されると推測される.Table 2には,140 mM (+)O2の系での2つの時系列クラスタリング結果の対応表を示しており,二量体回転角φに基づいて分類されたDAXのうち,TrajT-Rとして分類されたクラスタをCluster-R,T状態が保持されたトラジェクトリとして分類されたクラスタをCluster-Tと示した.Table 2の網掛けで示したように,Cluster-RとCluster-Lに同時に分類されたトラジェクトリ数は10本であり,全トラジェクトリ30本に対する割合P(DAR∩HBL)は33%,それに対応する相関度合の指標RRLは−0.33となる.さらに,全系におけるP(DAR∩HBL)とRRLも57.5%と0.15であり,T-R遷移とBHB総数との間には明確な相関関係は見られない.したがって,BHBによるT-R遷移制御への寄与は小さいことが推定され,Cl-BHBとは異なる機構によってT-R遷移は制御されていると結論づけられる.

Table 2. Correspondence between two time-series clustering results of T-R transitions (DAX) and BHBs (HBY) in the model system of 140 mM. (+) O2. Shading indicates the trajectory was classified as Cluster-R and Cluster-L at the same time

4 まとめ

本研究では,ClとHbA残基間に形成される架橋水素結合(BHB)に着目し,四次構造制御におけるClによるアロステリック機構を検討した.αβ二量体回転角φとBHB総数を用いて時系列クラスタリング解析を行った.その結果,φに基づいた解析では,Cl濃度の上昇に伴い,T-R遷移が抑制される傾向を再現できた.しかしながら,BHB総数に基づいたクラスタリング結果との比較からは,明確な相関関係が見られず,Cl-BHBの形成は,T-R遷移の抑制に対して重要な寄与をしないと結論づけられる.

今回の結果から,Clの直接的な水素結合はHbAの構造制御に大きな寄与をしておらず,他の要因(例えば"間接的"水素結合形成の影響)が支配的であることが示唆された.現在,我々はT-R遷移前後でのサブユニット界面の水分子を含む水素結合ネットワークに与えるClの影響に着目して調査しており,Clにおける「非部位特異的」制御機構を明らかにできると期待している.

謝辞

本研究の一部は,国立研究開発法人科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業(CREST),文部科学省 科学研究費補助金事業,文部科学省 「富岳」成果創出加速プログラム「富岳電池課題」の支援を受けて行われた.また,計算の一部は,名古屋大学 情報基盤センターおよび分子科学研究所 計算科学研究センターの計算機を用いて実施した.

References
 
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