生活大学研究
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抄録

マタイ24, 28/ルカ17, 37に,「死体のあるところはどこでも,そこに禿鷲たちが集まるであろう」というイエスの発言がある.共観福音書の研究においては,マタイとルカ福音書に共通する語録資料(通称Q資料)の一部とみなされている.この語録は私が過去二十年来続けてきたイエスの「神の国」のイメージ・ネットワークの新たな網の目として追加的に「積分」可能である.このことを論証することが本論考の課題である.私見では,プルタルコス『倫理論集』の一篇「自然現象の原因について」918Cとルクレティウス(前99年頃?55年頃)『事物の本性について』IV, 679に,内容上も文言上も最も顕著な並行事例が見つかる.それは死肉があれば,場所の如何を問わずどこにでも集まってくる禿鷲の超能力を称える格言であった(以上第II節).福音書記者マタイとルカがQ資料に加えた編集とその神学的意味を分析(第III節)することによって,Q資料がこの格言を用いていた意味が復元できる.すなわち,すでに死から復活して今は天にいるイエスが間もなく再臨するが,その再臨が人間の居場所を問わず目に見えるものだということである.生前のイエスにとっては,同じ「人の子」という語は自己呼称ではなく,自分が宣べ伝えている「神の国」が間もなく地上に実現する時に出現するはずの超越的救済者を指していた.この違いを考慮に入れた上であれば,生前のイエス自身が問題の格言をその「人の子」の到来の普遍的な可視性を言い表すイメージとして,稲妻のイメージとワンセットで用いたことに「さもありなん」の蓋然性がある.その到来は稲妻のひらめきが地上の特定の「あそこ」や「ここ」に限定されないのとまったく同じように,地上のどこでも目に見える宇宙大の出来事だというのである(第IV節).

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