南澤学園町の分譲地開発に関し、その告知、広告、購入者、実際の住宅地の様子などの情報源はこれまで主に『婦人之友』で紹介された記事に限定されていたが、このたび婦人之友社所蔵の実際の土地分譲に関わる一次資料を調査することができた。資料は合計9点で、婦人之友社等学園町分譲地売主側が作成した手紙(写し)類の綴り6点と人名簿、人名別台帳(区画図含む)、そして分譲地のパンフレットで構成されている。手紙類の綴りは主に分譲地の第3、4期の土地に関する記載で、南澤学園町の購入検討者、購入者、居住者に関するやり取り等で占められている。また、それ以外の資料からは、土地購入に関わった人達の地理的分布や分譲地売買の全体像、分譲地に関する理念や状況が垣間見える。
これら資料より、南澤学園町のより具体的な造成及び分譲の様子が判明した。南澤学園町は、駅と学園との関係性や教育を意識し、4期にわたって造成・販売された。その事務手続きは婦人之友社学園町経営部が行い、羽仁吉一の責任の下、羽仁賢良も協力して行われた。土地代等の支払い手続きは、最初に申込証拠金を払った上で、数年に渡る分割払いを可とした。各区画内に分譲前からある松等立木の数に応じて立木代を徴収しており、立木の風景が町の特色であるという認識が当初から発現した。また、学園町居住者は少なくとも1932(昭和7)年時点では学園小学校への入学が認められる旨が示されており、学園町と自由学園との直接的な強い結びつきがあった。1927(昭和2)年より始まった第3期分譲頃から少しずつ住宅と住民が増え始め、1930(昭和5)年には南澤学園町住宅組合や『婦人之友』愛読者による団体「友の会」も活動。並行して自由学園校舎も設計した遠藤新設計住宅が建ち始め、地域の景観構成要素の一つになっていった。1937(昭和12)、1938(昭和13)年頃には、住民が交代で町の委員を担い、規定等もない状況で、羽仁夫妻の理念を共有した住民による、その理念を体現させた町がある程度実現したと世に示した。このように、南澤学園町は、ただ土地を分譲する一般的な住宅地ではなく、共同体としての地域形成を多方面から行った特殊性を有しており、本資料は、その地域形成の過程を理解するための端緒といえる。
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