抄録
本稿では、19世紀末以降ドイツ、日本、アメリカによる様々な形態の統治を継続的に受けてきたミクロネシアのパラオ社会において、人々が重層的植民地状況にいかに対峙してきたのかを、在地の親族集団のレベルから解明する。具体的には「日本出自のパラオ人」、すなわち日本統治期に流入した日本人移住者(男性)とパラオ人(女性)との間に生まれたダブル(ハーフ)や、日本人移住者を生物学的両親に持つが、太平洋戦争後の混乱のなかでパラオ人に養取された人々を取り上げ、かれらがポスト日本統治期にパラオ社会のなかでいかなる位置に置かれてきたのかを検討する。 かれらは、母系親族や養子として、アンビマトリリニアルな親族集団カブリール(kebliil)に取り込まれ、平素はパラオ人として生活してきた。同時に「ニッケイ」(nikkei)「ニホンジン」(nihonjin)「ニセイ」(nisei)「アイノコ」(ainoko)などと呼ばれて差異化されることもあった。2008年に死去したある日本出自のパラオ人女性Xの遺体埋葬をめぐる親族集団内の論争からは、特異な出自が排除のイディオムとして利用された様子がわかる。Xの対立者は、Xの出自に言及しながら伝統的な埋葬地(odesongel)への埋葬を拒否した。これに対して、Xの支持者は、一部のダブル(ハーフ)が埋葬されている、コロールの日本人墓地に埋葬しようとした。しかし、Xの子どもたちは自分たちも母親もパラオ人であるという意識から、この計画を受け入れず、最終的にXの遺体は変則的な方法で伝統的な埋葬地に埋葬された。論争のなかで露わになった日本出自のパラオ人の両義的な社会的位置性は、日本統治期とアメリカ統治期とを跨ぐ重層的な植民地状況を通じて生成されていったものである。