本稿は、タイ社会における公的な医療や福祉の制度に組み込まれていない、仏教看護におけるケアの実践とその関係性に着目する論考である。タイ・プラバートナンプ寺におけるエイズ療養者の看取りには仏教の教えが根付いている。本稿では、エイズという苦悩への向き合い方と死を考察の材料とし、ケアの実践とその基層となる関係性を扱う。仏教看護の「何もしないケア」は、看護者から一方的に押し付けられる看取りではない。死にゆく療養者が仏教徒として望む死をつくりだしていく能動性が確認されるからである。タイ社会においてエイズによる死は不名誉なこととみなされる。だが、療養者は蔑まれたまま失意を抱えて死んでいくのではない。療養者は仏教徒としての誇りを取り戻し、来世への輪廻転生を期待しながら最期を迎える。療養者と看護者は、仏陀に代表される「第三者」を中心に据えたケアの三者関係において、「赦し(アホシカムahosi-kamma)」を実践していく。療養者の「赦し」は、エイズに関わる差別や偏見、臨床上のあらゆる苦しみを甘受しながらも、仏教の教えに基づいて自己を抑制し、一切を忘れていこうとする実践である。仏教徒として生きる療養者と看護者は、「赦し」の関係を築いていくことで能動的に死に対峙していく。このケアの三者関係と「赦し」は、寺院の看取りを読み解く鍵となっている。「何もしないケア」は、その基層としてケアの三者関係があり、その三者の関係性は「赦し」の技法によって維持されている。