宗教的自覚者が「生きること」を「救済的」に探求してきたとするならば、人類学を学ぶ者は「生きること」を他者とともに学問的に問い続けてきた。本論では宗教的自覚者による「救済的に分かること」がどのような経路をたどることなのかを学問的に理解することを目指す。前半部分ではアニミズムとシャーマンをめぐる人類学の議論に、岩田の新アニミズム、パースの記号論、佐藤のレトリック論を組み入れ、宗教的自覚者の表現を理解するための新たな視座を提示する。ここでは、より偉大な宗教的自覚者が第一次性と第三次性の間の折りかえし運動を繰りかえし、言語化できない第一次性の輪郭を類義累積で表現し、そこに虚空を造形するのではないかと考えたい。後半部分ではこの視座から、インドで不可触民解放運動を率いる佐々井秀嶺の宗教表現を検討する。佐々井はラージギルでの宗教経験を原体験とし、インドの被差別民によって聖者化されながら宗教実践を行ってきた。その経験の中で佐々井は出来事性と死の予兆を再発見し、第三次性から第二次性を経て、第一次性を直観しようと試みる。「唵」や「1つの生命」など、自らの宗教経験を多彩な言葉で表現する類義累積により、佐々井は自らが直観した第一次性の輪郭を描き、そこに虚空を造形してきたと考えられる。佐々井の手記にある筆跡からは言語表現と文字の姿、身体動作、現実の生の間の連続性が明らかになる。この本論の試みは他者とともに学ぶ人類学の1つと言えるだろう。