抄録
学習メディアは他者とのかかわりをその存立条件とする。それでは「独りで学ぶ」はずの講義録が、なぜ学習メディアとして存在しているのか。それは講義録に、従来の教育学的な思考様式では捉えることのできない講義録固有の他者とのかかわり=〈顔〉が内在しているからではないのか。〈顔〉は、学習メディアとしての講義録の在りよう
を基礎づけているのではないか。
本稿はこうした仮定のもとで講義録の〈顔〉に注目し、〈テクスト-存在論〉の分析枠組みを用いて講義録の記述を追跡しながら、戦前の講義録の教育学的意義を考察する。
当初明確な形式を有しなかった講義録の言説は、明治30年代後半になると〈楽学/苦学〉の区分によって、大正期に入ると〈通学/通信〉の区分によって構成された。言説の内容に注目すれば、講義録は肯定・否定・正当化の3つの言説に類型化でき、そこに「書物」と「自分」という2つの〈顔〉を見出すことができる。
〈顔〉は、講義録の学びが学習者の意志を源にするがゆえの、自己責任の論理という講義録の難点と、学びの時間性という講義録の固有性を同時に示している。
以上の議論を踏まえると、戦前の講義録の教育学的意義は、教育の
自明性の相対化と教育の別のあり方を示唆したところにある。