近年、少子高齢化の進行とともに介護サービスに対する需要が増加しているため、介護従事者を安定的に確保することが政策課題となっている。先行研究では、介護従事者の賃金が介護サービスの公定価格(介護報酬)によって事実上規制されており、介護労働市場で超過需要が発生しても賃上げが難しいことが、介護人材不足の一つの原因とされている。そこで、本稿では、2009年度の介護報酬引き上げが介護従事者の賃金、労働時間及び離職率にどのような影響を与えたのかを、『介護労働実態調査』の個票を用いて分析した。
通常、介護報酬引き上げが賃金や労働供給に与える影響を、外部労働市場(マクロ経済)の変化等がそれらに与える影響と区別することは難しく、先行研究でもこれらの影響を必ずしも区別できていなかったと考えられる。そこで、本稿では、2009年度介護報酬改定において首都圏都市部のうち東京23区のみで介護報酬の地域区分別上乗せ割合が3%ポイント引き上げられたことを自然実験とみなし、Difference-in-Differences(DID)推定で介護報酬改定の効果を識別することを試みた。
DID推定を行うにあたり、東京23区を実験群、23区以外の東京及び埼玉・神奈川・千葉の都市部を対照群とした。分析対象は訪問介護員の非正社員短時間労働者と介護職員の正社員であり、賃金、労働時間及び事業所の離職率を被説明変数に用いた。推定を行った結果、まず、賃金については、いずれの職種についても介護報酬改定後に所定内賃金の有意な増加は見られなかったが、手当や一時金等を含む実賃金の有意な増加が見られた。したがって、各事業所は介護報酬引き上げによって増えた収入を用いて、手当や一時金の支給という形で賃金を増額した可能性がある。
一方、労働時間についてはいずれの職種でも有意な変化は推定されなかった。介護職員正社員については、勤務時間が予め定められているため実賃金が増加しても労働時間の変化は小さかったと考えられる。訪問介護員非正社員短時間労働者については、いわゆる103万円・130万円の壁の影響を受ける労働者による労働時間の抑制が、壁の影響を受けない労働者の労働時間の増加を相殺したのかもしれない。離職率については、介護報酬改定後に訪問介護員非正社員短時間労働者のそれが有意に低下したという結果が得られた。これは、実賃金の増加という処遇改善により、離職を思いとどまる労働者が増加したことによってもたらされた可能性がある。