2009 年 61 巻 1 号 p. 23-38
本論文の目的は,『ニュー・インペリアリズム』においてハーヴェイが提起した「奪有による蓄積」ならびに「権力の領域的論理territorial logics of power」の概念を手がかりに,ハーヴェイの業績の中で経済と国家との関係に関する認識がいかに変遷していったか検討し,ハーヴェイの国家中心主義的・政治主義的な考え方を乗り越えて,空間的スケールの重層性を分析する必要性を主張することである。
ハーヴェイは,マルクスが『資本論』で論じた原始的蓄積における暴力的な国家介入が,1970年代以降,「奪有による蓄積」というメカニズムとして復活・発展して来たと主張する。ハーヴェイは,国家が金融資本と提携し,IMF等をつうじた金融化と民営化,すなわち「奪有による蓄積」を周辺諸国に強圧で押し付ければ,過剰蓄積恐慌は解決されうることを強調する。
だが,このような主張は,以前のThe Limits to Capitalとのあいだに齟齬がある。Limitsでハーヴェイは,資本蓄積における国家の機能主義的役割に注目していた。ところが「奪有による蓄積」においては,国家の暴力的な主導性が強調され過ぎていて,これが,1973年以降の資本主義の特徴とされたため,資本主義全体の歴史に貫通した,国家と経済とのあいだの弁証法が十分見えなくなってしまった。批判地理学は,もっと地理的な原点に立ち返り,ブレンナーらが唱える重層な空間スケール論などを援用し,政治制度と経済との弁証法が作り出す空間性をきちんと分析する必要がある。