抄録
放送大学のテキストとして著された本書は, 「近代」に生きる「普通の人々」の生活・人生経験に関する縦断データを用いた研究を紹介し, また, その検討を通じて「近代」という社会の特質を把握することを目的としている。
本書の特徴は, 「普通の人々」の人生経験の呈示のされ方にある。子ども期・青年期・若い成人期・中年期・高齢期といった人生のさまざまな相にあらわれる課題・経験が, 一つの社会のデータによってではなく, アメリカ・イギリス・ノルウェー・カナダ・ドイツ・スウェーデン・日本という, 複数の「近代社会」でなされた研究を用いて示されている。異なる社会・文化のもとでは異なる日常が存在することを考えれば, 人々の生活・人生経験を検討するために, 複数の社会で得られたデータを人生の諸段階に沿って順に展開している本書は, <どこの社会のものでもない人生>を対象としている感を与えるかもしれない。しかしこの点にこそ, 著者たちの意欲的な意図と試みを読み取ることができるだろう。
著者たちの基本的な論点の一つは, 近代社会に生きる人間のライフコースには画一化が生じているということである。「市場と組織が基本的な場になっている近代社会の人間の生活」 (第2章) は, 近代化の過程で市場と組織が<近代の論理>の適用を受けることで, 異なる社会であっても, その社会のなかで生活する人々のライフコースには一定の共通した構造化が生じる。それゆえ, 異なる社会のデータをつなげて描かれた<どこの社会のものでもない人生>は, <どこの社会でもありうる人生>=<近代社会の人生>として位置づけられる。また, 複数の<近代社会>に生きる人々のライフコースの諸側面をみることで, 逆に<近代社会>の本質も把握できるのではないか (ミクロなレベルからマクロなレベルを照射する), というのが本書の基底をなすアイデアである。
とりあげられている資料は, 「われわれ自身の主観的な判断をまじえず, それぞれの著者の考察をできるかぎり忠実に伝えるように」 (pp.5-6) という方針のもとに紹介されており, 各国で蓄積されてきたライフコース研究を学習者が知るのに便利である。反面, この方針によって「近代」に関する一般的議論と資料の要約の部分に距離が生じ, それぞれのデータが示す生活・人生経験と「近代」の本質との連関が十分には論じられていないというデメリットも生じている。
ライフコース研究が最も進んでいるアメリカでは, パネル・データの蓄積が進んできたことで研究の力点がミクロな次元の分析におかれ, 分析の結果が特定の歴史的時間の作用を受けたものという認識はなされるものの, 分析結果と「近代社会」を関連させるような「大きな視点」をもつ議論は少ない。それゆえ, 「教材」であることによる上述のような制約をもつにもかかわらず, 近代社会をも射程とする本書は, ライフコース研究のなかで一定の意義を有すると思われる。