抄録
第二次世界大戦後における台湾でのオーラル・ヒストリーの発展については、少なくともすでに三篇の論文が世に出ている。本文ではそれらを参考に、戦後台湾におけるオーラル・ヒストリーの過去と現在を述べるものである。
1. オーラルインタビューの範囲と実施機関
(1)戦後1946年より、オーラル・ヒストリーの一つとしての「座談会」が展開
戦後台湾のオーラル・ヒストリー発展の出発点は、座談会の形と方法で始まった。すなわち「集会式に関係者を招き、歴史上の重要事件や重要人物について語ってもらう」ことで「短時間で様々な経験や見方を得ることができ」、後に原稿を書いてもらったりオーラルインタビューの参考名簿にしたりした。座談会の記録で最も早いものは、『台湾文化』1巻3期(1946年12月1日)刊行の「美術座談会」「音楽座談会記録」である。この次に台北市文献会が出版した『台北文物』(後に『台北文献』に改題し現在に至る)2巻1期(1953年2月)に「艋舺古老の座談会」の記録があり、その後、大龍峒、大稲埕、城内および付近の郊外、錫口での座談会の記録が掲載され、本雑誌の特色となっていった。1968年に李登輝が政令指定都市台北市の市長となった際、市内古老の座談会を行った。それは山、高、水、長の4グループに分かれて行われ、最終的に『台北市耆老会談専集(台北市古老会談集)』として出版された[台北市文献委員会1979]。台北市文献館では座談会を史料収集の方法の一つとみなし、現在も行っている。
(2)台湾オーラル・ヒストリーの重鎮―中央研究院近代史研究所
1) オーラル・ヒストリーの第一段階(1959年12月~1972年7月)
台湾で最も早く学術的にオーラル・ヒストリーに携わったのは、1955年に成立した中央研究院近代史研究所であり、そのオーラル・ヒストリーの成果は今に至るまで台湾史学界をリードし続けている。
研究所の創設所長である郭廷以は、もし「重要な出来事の当事者が自伝や回顧録を書き、人を派遣してインタビューを行い、その談話を記録できれば」、「歴史問題のいくらかは解決でき、いくばくか歴史の真相が明らかになる」と考えていた。そこで1959年10月に「民国口述訪問計画大綱(中華民国オーラルインタビュー計画概要)」をまとめ、12月に正式に開始した。インタビューを受けたのは傅秉常など11名で、主なインタビュアーは所内の同僚および外部から招かれた研究者であった。当時のインタビュアーは実地で経験を積み、記録も研究者がおこない、専任のアシスタントはいなかった。録音機は重く、まだコンピューターもなく、原稿はすべて原稿用紙に手書きし、インタビュイーの修正を経てようやく完成原稿ができあがった。
オーラル・ヒストリーを行うには、時間、経費ともに多くを費やしたが、所内の経費には限界があった。そこで1960~62年にアメリカのコロンビア大学と共同プロジェクトを行い、1962~72年にはフォード基金からの援助を得ることができた。これに益するところは少なくなかった。1972年までの14年間で、近代史研究所は70名にインタビューし、480万字の原稿ができた。しかし政治的タブーと敏感な内容のため、研究所内には公開されたものの、使用者は限られた。1982年になってようやく第1冊『淩鴻勛先生訪問紀録(淩鴻勛インタビュー記録)』[沈雲龍1982]が出版された。
この段階で近代史研究所はいくつかのルールを作った。一つ目は一人称で原稿を作ること。二つ目に、記録には一問一答を採用せず、時間軸によって主題を整理することで読みやすくすること。三つ目に、稿料を送らず、出版後にインタビュイーに100冊贈ること。四つ目に、オーラル・ヒストリーを史料収集と捉え、研究業績とは見なさず、それゆえ研究成果に入れないこと。現在もなおこのルールのままである。