2023 年 7 巻 論文ID: 2023-016
第7回日本薬学教育学会における患者参加のシンポジウムの内容について演者と参加者を代表して報告する.薬学教育関係者及び薬学生は日本薬学教育学会には全員参加を基本とすべきである.現状,残念ながら薬学人のアイデンティティは「医学の後追い」「積極的な受け身の姿勢」「現状維持」「免許を持っている」である.現状の国家試験対策の講義は全てオンライン化し,対面の講義は全てPBL化すべきである.それに合わせて国家試験を改革する必要がある.現状の均質化を目指す薬学教育の副作用として個別対応力が欠如してしまっている.個々の患者に合わせた対応のためにはイマジネーションが必要であり,それを身に着ける教育学的方法論として最も有効なのが薬学教育における患者参加である.シンポジウムはオンラインの方が有効であったため,関係者の全出席を目指す意味でも学会はオンライン開催を基本とし,講義も含めて安易に対面に戻すべきではない.
This paper summarizes the presentation on imagination-based pharmacy at the symposium on patient participation during the 7th Annual Japan Society for Pharmaceutical Education. Pharmacists are often identified as medical professionals who merely “follow medicine”, “are actively passive”, “maintain the status quo”, and “have a license”. There are also assumptions made regarding pharmaceutical education. For example, all educators and students should participate in the Japan Society of Pharmaceutical Education. All current national exam preparation lectures should be online with reformed national exams. All face-to-face lectures should be problem-based learning (PBL). Current pharmaceutical education is aimed at homogenization, so it lacks individualized skills. Patient participation in pharmacy education can be an effective pedagogical methodology for helping future pharmacists acquire imagination to respond to individual patient needs. The authors conclude that conferences should be held online and open to all participants.
この報告は,全ての薬学教育関係者はもちろん,教育の当事者である薬学生,また,薬剤師,患者など,薬学教育の結果に影響を受けるあらゆる方々が必読の内容となっている.よって,多くの関係先に周知徹底の程をお願いしたい.私自身は,上記を記載することに若干の抵抗を覚えるのだが,参加者の強い希望があり記載する.
シンポジウム全体としては,このシンポジウムに参加した方々に「考えるきっかけ」を持ち帰ってもらう(実際は,オンライン開催になったため,既に「帰り着いた状態」になってしまった.)ために,敢えて「まとめ」は実施せず「答え」を出さないで終了した.しかしながら,当該報告においては,シンポジウム前後のシンポジスト同士の会話も含め(結論とはいかなくても)ある程度の「まとめ」を示すことにする.
シンポジウムは,まず,話題提供として,4名の演者(薬学生1名の分は代読.理由は後に述べる)による5~10分間のショートプレゼンテーションが実施され,その後に,トークセッションとして,シンポジウムの仕様の関係でzoomのQ&A機能を活用しながら参加者との双方向性を重視しながら対話を進めていく流れで実施された.参加者は,ショートプレゼンテーションを聞いている最中も含め,随時,Q&Aに,質問だけでなく,思ったことや,感じたことを,ニコニコ動画のコメントのようにリアルタイムに投稿することを促され,実際に,多くのコメントが寄せられた.ところが,シンポジウムの途中で,このQ&A機能内の投稿はシンポジストにしか開示されていないことが判明し,随時,シンポジストが,Q&Aに投稿された内容を,参加者全員が見られるようにチャットに転載することで,参加者全員が対話に参加できるようになった.
1.みらい女子プロジェクト所属 都内某薬学部6年生
2.患医ねっと代表 鈴木信行
3.神戸大学名誉教授 医学博士 医師・薬剤師 平井みどり
4.薬剤師 薬学博士 岩堀禎廣
当初,ショートプレゼンテーションの1人目には,薬学生自身が登壇する予定であったのだが,シンポジウム当日が大学の定期試験の予備日と重なり登壇できなくなった.このあたりのカリキュラムやスケジュールの話も,本来,採りあげるべき課題かもしれない.薬学教育を考える学会に,その当事者である薬学生及び薬学教員の参加を前提にしたカリキュラムが大学において組まれていないのは,薬学教育が薬学部の関係者にとって「重要度が低い」,すなわち薬学部の関係者は薬学教育を「疎か」にしていることを意味していると言わざるを得ない.「疎か」という表現は,まだ「手緩い」かもしれない.実際に,この薬学生は,シンポジウムにおいて「氏名及び所属を表示すること」を「大学の研究室の教員」に禁じられた(最終的には大学名を出さずに,学生団体所属として氏名を出すことになった.).この事例について,皆さんは,どのように考えるだろうか.昨今,医療において「患者不在」が叫ばれて久しいが,薬学教育においても,学習者(薬学生)不在という「同じ構図」があると考える.その問題点を解決する意味で「薬学教育学会」における「患者参加のシンポジウム」に「薬学生が登壇する」ことは大きな価値があった.しかしながら,問題の解決どころか「薬学教育者の抵抗」により実現できなかったことにより,むしろ「問題の根深さ」が表出した結果となった.薬学教育を考えるうえで,薬学生ではなく,教育者側の参加もしくは教育者側の意図や考えが中心になっているのは,医療において,医療者中心の状態と同じではないだろうか(当該部分は学生個人の考えではなく,オーガナイザー及び演者全体の共通認識である).
また「教育効果」という視点においても,薬学生の参加は薬学教育者にとって重要である.なぜなら,薬学教育者は「自分たちの教育がうまくいっているかどうかのフィードバックを得る」必要があるからである.フィードバックが得られなければ,例え薬学教育者自身が「うまくいっている」と思っていても,「単なる自己満足」かもしれないからだ.そして,実際のところ薬学教育者は学習者からフィードバックを受けることがほとんどない.その意味で,ほとんど「自己満足」的な教育を行っていると言わざるを得ない.今回の薬学生の発表は「薬学教育者に対するフィードバック」という点においても重要である.
次に,患者参加を考えるシンポジウムで最も重要な「患者」が演者として登壇する.演者は,先天性身体障がい者,かつ複数のがんに罹患した経験がある「患者」である.患者の側から,薬剤師,薬学生への期待,および教育の重要性について「『健康な生活の確保』を軸にした教育を」「教育には患者を活用する」「患者による講演会の実績から」の3つの話題から考察していく.
次に,教育現場と医療現場の両方を経験した演者が登壇する.薬学部は他の医療系学部に比べて圧倒的に社会人経験や医療現場経験のない教員が多いという課題を抱えている.演者は薬学部教授から大学病院の薬剤部長に転身し,医師免許を持ちながら薬剤師として長く勤務してきた経験から「『エビデンス』や『ファクト』と呼ばれるものへの盲信の危険性について」「ポリファーマシーと患者参加」「3つのE(experience, evidence, emotion)の進化」「向き不向き」の4つの話題から患者参加の意味と「薬学教育においてアイデンティティや自己実現を重視すること」の重要性について考察していく.
最後に,日本で唯一医歯薬看護介護美容の全分野で教員経験があり医療書と教育書とビジネス書の分野で著書がある演者が2020年に上市された「患者参加型医療」の書籍の内容を紹介するともに,時間が許す限り,事前ミーティングでの議論のトピックについて紹介する.
この薬学生は,本シンポジウムとは別に,個別でも口頭発表を予定していたが,その発表も,大学側の協力が得られず叶わなかった.口頭発表の内容は,このシンポジウムともリンクしているので内容を組み合わせて記載する.
発表の冒頭に薬学生は,「薬学生の主な課題」として「薬学部の学生は要領よく効率的に進学し,国家試験をパスすることを重視しており,アイデンティティに欠けている」という点を挙げた.注目すべき点は,薬学教育者側に指摘されなくても「薬学生自身がこの課題を自覚している」ことである.多くの薬学生は「効率よく進学し国家試験をパスする」ために,ベルトコンベアーに乗せられ運ばれるように,ただ,ひたすら目の前の課題をこなすことを繰り返し,「それが何の意味を持つのか,わからない」という感覚を持ちながら6年間過ごしているそうだ.これは,薬学生になる前の高校生までの段階で「なぜ,勉強するのか?」という点について,教育者が学習者に提示することを疎かにしてきた結果であり,それが,大学教育でも繰り返されているということを意味している.この点について薬学教育者側は「薬学部を志望した時点で目的は明確ではないか」と主張するかもしれない.これは,現実を誤認している.(後にも話題に挙がるが)実際のところ,心から薬剤師になりたくて薬学部に進学した人間は多くて2~3割程度であり,ほとんどの薬学生が「手に職を」「親や教師に勧められた」「入学できたから」「医師や看護師が無理だったので」「実家が薬局」「推薦枠があったから」という理由で薬学部に進学するという現実を直視する必要がある.これは,授業で知識を教育する「前」に「どのような薬剤師を目指すのか」という「学習の目的の明確化」が必要だということを意味している.
発表者の薬学生は,薬学生が勉強に興味を持てない,もう1つの理由として「授業がつまらない」という点も挙げている.これも,教育者にとっては耳の痛い話ではないだろうか.実際,ほとんどの薬学部の授業は興味がある学生でもつまらないし,教育者側に「面白くしよう」という努力も感じられない.それに,実際のところ,薬学部の教育は「国家試験予備校になっている」という現実は,誰もが認めることであろう.シンポジウム内でも,「予備校講師」の役割を求められてしまっている教育者側への同情の声も多かった.講義を面白くするためのアイデアについても,シンポジウム内で多くの議論があったので後に述べる.
発表者の薬学生は,「実習に行って初めて授業の内容の必要性が分かった」と述べていた.学会内の奨励研究においても「実習が充実していた生徒は授業へのモチベーションが上がる」という報告がなされていた.これについてもシンポジウム内で多くの議論があったので別にまとめる.
また,口頭発表の主題である「オンライン授業になって薬学生のGPAが向上した」という事実について,教育者はどう受け止めるだろうか.発表内で薬学生は,オンライン授業の有効性について触れるとともに,コロナ禍において外出もアルバイトもできなくなった学生が「暇だから勉強した」という調査結果を述べた.これを教育者は,どのように受け止めるだろうか.コロナ禍でなければ薬学生は「忙しくて勉強する時間が無い」ことを意味している可能性がある.これについても,シンポジウム内では多くの意見が出されたので,別にまとめる.
当該発表で,薬学生は自分たち薬学生側に対しても「現在より,学習に対する優先順位を上げる必要がある」点を指摘したうえで,教育者側にも「興味の持てる授業」を求めるとともに,興味を持つために「患者と日常的に触れ合う機会を教育に取り入れること」を推奨した.
次は,「患者の立場から」と題して3つの話題について鈴木信行氏からプレゼンテーションがあった.1つ目の話題は「薬剤師の職能」についてである.薬剤師の職能は薬剤師法において「患者の健康な生活の確保」と書かれており,調剤などは全て,その目的達成のための「方法」「手段」に過ぎない.しかしながら,現実は,「患者の健康な生活」に目を向ける薬剤師はほとんどおらず,「方法」「手段」である調剤が目的化されてしまっているという現状について問題提起がなされた.彼は「患者」であるため,定期的に医療を受け,薬局に薬を買いに行くが,その過程で「生活」について,気にかけられた経験はほとんどないと言う.そして,医療者が忘れがちな「患者の生活は一人ひとり違う」と強調した.重ねて「どの薬剤師に当たっても,同じことしか聞かれない」という課題も指摘する.鈴木氏のような「わかっている患者」には「あぁ,OSCEちゃんとやっているのね」という理解が得られるかもしれないが,一般の患者は「マニュアル対応されていると感じる」と患者の声を代弁した.これは,この後の平井みどり氏の発表でも同じことが述べられたし,フロアとの意見交換の際にも「エビデンスと患者」「標準化と個別化」という話題で数多くの意見が出されたので,別にまとめる.
鈴木氏はこれらの課題の解決策として2つ目の話題である「薬学教育への患者参加の必要性」について,当該シンポジウムのテーマそのものである「教育への患者参加」についての内容を述べた.鈴木氏は薬学教育のカリキュラムの緻密さに理解を示したうえで,仮にカリキュラム内での患者参加が難しいのであれば,卒後教育もしくは研究室活動の一貫としてでも良いので「まずは,始めてみる」ことの重要性を強調した.
3つ目の話題として,患者参加の有効性について,自身が行ってきた患者と薬剤師の接点構築活動の経験からの話があった.先の薬学生の発表でも触れたが,薬学生や薬剤師は,患者と対話することによって,自分が学んでいることや,服薬指導の際におけるコミュニケーションの問題について初めて自覚する.この話題もフロアから多くの意見があったので後にまとめる.最後に,「いち患者」の立場から,薬剤師への期待として「一人ひとり 異なる患者の生活の相談に乗ってくれること」を強調した.
次に,平井みどり氏より,標準化と個別化の問題の話の流れから,薬剤師の「エビデンス及び数値化や言語化できるもの「だけ」に着目しがちだ」という問題点について指摘があった.「モノからヒトへ」と言われて久しいが,その「モノ」は調剤だけでなく,「ヒト」も均質ではないと指摘した.更に,国家試験と授業の改革についても「現状に合わないなら変えたらよい」と指摘する.特に,授業に関しては「薬学生の意欲を削ぐ教育をしてしまっている」現状に,強い警鐘を鳴らし,「全ての授業はPBLに,そして,国家試験もそれに合わせた改革を」と提案された.これらについては,シンポジウム中でも多くの意見が出されたので,後にまとめる.最後に,薬学教育と薬剤師業務におけるイマジネーションとエモーションの重要性を強調された.
最後に,私が,シンポジウムの開始前のミーティングで挙がった興味深い話題を提供するとともに「コンコーダンスモデル」と「患者にとって医療がどれほど異世界なのか」についての話題を提供した.これらについても,後ほど,シンポジウム中での意見も併せてまとめる.
図1はチーム医療と患者中心の医療の相互作用の副作用で「患者が中心で独りぼっち」という「かごめかごめモデル(有田実行委員長命名)」である現状に対して,コンコーダンスモデルを活用し,患者を「自己管理(きちんと病院に通う,きちんと薬を飲む)」と「自己観察(医療者の提案した治療がうまくいっているのかいないのかを医療者にフィードバックする)」の専門家としてチーム医療に迎え入れることを提案している1,2).これは,点滴のような特殊な方法を使わない限り「患者に薬を飲ませることができるのは患者本人だけである」という,医療者が見落としがちな前提に基づいている.この前提が成り立つのは,患者がそもそも「薬はできれば飲みたくない」と考えているという大前提があるからである.ここを医療者は「患者は薬を飲みたがっている」という誤った認識を持っていることが多い.これは,患者が「薬を下さい」という言葉を額面通りに解釈しているからである.少し,想像力を働かせれば,患者の本心は「できれば薬を飲まずに治りたい.」,でも,無理なら「仕方なく薬は飲むけど,必要最小限にしたい」という気持ちが想像できる.これを前提にしないから,患者が薬を飲まないと,単純に「飲み忘れ」だと安易に結論付けてしまい,本質的な解決に繋がらない.患者に対して適切な医療を提供したいなら,本人の協力が必須である.そのために,きちんと専門家としてチーム医療に患者本人を迎え入れることが必要である.
患者を「自己管理」と「自己観察」の専門家としてチーム医療に迎え入れた場合
今回の学会のテーマは「薬学人のアイデンティティ」である.もちろん,学会内で実施されるシンポジウムも(各々のシンポジウムごとに色がありながら)根底には,当該テーマの上に実施されることが前提である.従って,このシンポジウムの学会要旨には,「エクスペリエンスからエビデンスへ,そしてナラティブへと薬学のトレンドがシフトしてきたが,それは全て医学のトレンドの「後追い」である.今回のテーマであるアイデンティティを「後追いである」とはしたくないので,今回,イマジネーションベースドメディスンが生まれる前に,それに先駆けて,イマジネーションベースドファーマシー(想像力に基づく薬学)を提案してみたい.なぜ「イマジネーション」を強調するのか.それに患者参加がどう関係するのか.それらの点と点を,シンポジウムを通して繋いでみたいと思う.」と述べた.ところが,学会が始まり,冒頭の挨拶において「医学教育に追いつけ追い越せ」や「医学教育と同じくらいのレベルまで」という発言があった.この「医学を追う」という言葉がアイデンティティをテーマにした学会の冒頭で述べられるという事実が薬学人におけるアイデンティティの問題の根深さを感じさせる.なぜ,薬学関係者は,薬学が医学より先に行くことや,医療を薬学がリードすること,医学業界が薬学教育を参考にすること,医師たちが「今,薬学が凄いんだって」と話題にするようなことを目指さないのか.そして,薬学教育学会を多くの医学教育関係者が参考にするために参加するような場所にすることをなぜ目指さないのか.そもそも,日本の医療は蘭学が入ってくるまでは「薬師」による漢方を中心とした薬学によって担われていた.それが,現在では,すっかり「自分たちは医療の主役ではなく脇役」という意識になってしまっている.自分たち一人ひとりが日本の医療を背負っていく認識と自覚が必要ではないか.その覚悟を持って,日々,教育に当たる必要があるのではないだろうか.もしかして,薬学教育関係者は,「追っている自分」に既に満足してしまっているのではないか.もう1点,問題の根深さを感じさせる一幕があった.シンポジウム中のフロアからの「皆さんは,薬学人のアイデンティティはなんだと思いますか?」という発言にパネリスト全員が一瞬,凍り付いたのだ.これを読まれている方は,これが何を意味するかわかるだろうか.パネリストからの回答は「それは,皆さん自身が考えることです」だった.自分の外に正解を求めるのは,薬剤師以外にも見受けられる性質ではあるが,特に薬剤師は,正解を外に求めがちである.これは,強いられるときちんと「自分の考えを述べる」ことができるにも関わらず,学生の頃から「積極的な受け身」の姿勢をとることが身についてしまっているからかもしれない.この「積極的な受け身の姿勢」というのは,業務スタイルにも根深く影響しており,これは,2つ目の薬学人のアイデンティティであるのではないかという結論に達した.
今回のシンポジウムでは,もう1つ,興味深い,薬学人のアイデンティティについての話題があった.追って採りあげる「薬学教育の話題」と「医療の現場の話題」の重なる部分において「現在の薬学教育は医療現場の求める薬剤師を育成していない」という話題があった(これについては,追って詳しく述べる).その原因として,「薬学教育者の多くが現場を知らない」うえに「現場のニーズが教育者に知らされない」ために「良かれと思って育てた方向性が間違っている」ため,ミスマッチが起こっていることが考えられた.また,この現場のニーズについては,これも学会のオープニングの挨拶のなかで「プロフェッショナリズムは社会が評価する」という話題があったが,このシンポジウムでは「患者=社会」という主張をしているため,この現場のニーズ=患者のニーズということになる.ところが,薬剤師は患者からのフィードバックを得ようとしない.そもそも,仕組みとして,病院や薬局で患者がスタッフにフィードバックする仕組みが無い(JR東海病院や徳洲会荘内余目病院で見た気がするが……).一般社会では,スーパーマーケットや居酒屋でさえ,顧客の声をフィードバックする仕組みがあるにも関わらず,医療では「自己満足」もしくは良くて「仲間内の評価」の段階で止まっている状況である.フィードバックを求めたがらない理由として「ネガティブなことを書かれる」という意見が多く聞かれた.確かに,基本,ポジティブフィードバックで良いのでは?という意見はシンポジストからも出されたが,そもそもネガティブなことを書かれるのを恐れるのは「成長したくない」と同義では?という意見も出された.実際のところ,薬剤師も薬学生も「成長したい」と口では言うが,なぜかフィードバックを好まない.この「フィードバックを好まない」という現実を客観視してみると,薬剤師の性質として「成長したくない」という恐ろしい現実が見えてきた.言い換えれば「波風立てたくない」「効率化したい」「安定したい」すなわち「現状を維持したい」という強い希望があることが伺える.「安定」とは悪くならない替わりに良くもならないことを意味している.そして,経年劣化するものだ.これは,確かに薬剤師の現状と言われると妙に納得感がある.シンポジストからは「現状維持は退化でしょ!」という意見があった.その通りだ.つまり,薬剤師は日々,退化しているのだ.確かに,若いころは上を目指していても,いつの間にか,ベテランになるにつれ,要領よく効率化して楽をする方向に舵をきり,何事もない毎日を過ごすことを求めるようになる.これは,他の医療職が薬剤師に抱いているイメージと同じである.薬剤師自身も思い当たる節があるのではないだろうか.私はこれを「薬学業界のホメオスタシス」と呼んでいるが,実際のところ「現状維持」は薬学人のアイデンティティの1つと結論付けざるを得ない.ただ,能天気にバブルを楽しんだバブル世代に戦後の貯金を使い果たし借金まで背負わされた薬学生たちは,生まれたときから「失われた30年」を生きている.前の年より今年が良かったことがなく,ずっと右肩下がりの人生を生きているのだ.そんな悪くなっていく一方の人生において「現状維持」を「良い意味」で使ってしまうのも無理もないとは思う.あと1つ,付け加えるならば「免許を持っている」であろうか.つまり「免許を持っている人」であれば誰でも良いのである.
薬学人のアイデンティティとは「現状維持(すなわち退化)」「医学の後追い」「積極的な受け身」「免許を持っている」である.薬学人とはつまり「医学の後を追っている積極的な受け身の姿勢の現状維持を求める免許を持っている人」のことである.これが現実である.これに対して,私たちシンポジストにとって,薬学人のアイデンティティは「変化の象徴」「最先端で最前線」「異世界の案内人」である.私たちはもっと「コピー」ではなく「オリジナル」な存在になる必要があるのではないだろうか.
最後に1点,薬学教育において,アイデンティティの問題は「主語」に注意する必要がある.なぜならば,薬学教育者側のアイデンティティのために薬学生が犠牲になる構図を描きがちだからである.薬学教育において,常に主語は学習者である「薬学生」である必要がある.そうしないと,日本のODAや被災地支援のボランティアのように「自己実現のために弱者を利用する」構図になるからである.薬学生を薬学教育者の「理想の教育」の犠牲にしてはならない.
今回の学会賞の研究報告のなかで,実習によって「薬学生のモチベーションが上がる」「患者と接することで,初めて授業の意味が分かった」ことにより「実習が有効に機能している」という報告があった.これは,裏を返せば,5年生で実習に行くまで,毎日「授業の意味が分からず」に勉強していることを意味している.私たちシンポジストは,恐らく日本で最も多くの薬学生と接した経験があり,全国,ほぼ全ての薬学部の薬学生との対話経験があり,日常的に複数の薬学部の薬学生と接している.そのような経験の中でも,薬学生から同じような声を聴く.薬学生は患者と接した際に「目から鱗(が落ちる)」という表現をよく使う.逆に言えば,接しなければ,鱗は目から落ちないままである.強調しておきたいのは,現場も授業もどちらも重要だということだ.やはり,知識がある学生の方が,同じ経験をしても学び取る量が多いと感じている.この課題の最も効果的な解決策として,現場と教室を等しく循環することが考えられるが,医療現場の受け入れ態勢の課題が新たに生じてしまう(医療現場は学生の受け入れに積極的ではないことは十分承知しており,教員の皆様が日々,苦労されている点であることも存じている.これは,別の大きな課題であるが,今回の話題では出なかったので割愛する).そこで,医療現場を教室に持ち込むことを提案する.つまり,当該シンポジウムの趣旨である「教育への患者参加」である.
授業への患者参加に加えて,「全ての授業をPBLにする」ということを提案したい.これは,薬学部に限らず,あらゆる大学生が共通に感じている課題だと考える.これは,教育手法のトレーニングを積んでいない教育の素人が講義などの教育を実施せざるを得ないというファカルティディベロップメントの構造上の問題でもあるが,医療系の講義は,他の専門の講義より,一層,つまらなくなりがちである.なぜならば,他の専門の講義は「国家試験対策」として「教えなければならない」内容が膨大であるというわけではなく,各教員が自らの専門分野について,自らの研究成果を講義で学生に伝えることができるからである.それに比べて,どうしても薬学部の講義では国家試験対策にほとんどの時間を割かざるを得ない.実際のところ,生徒も講義の内容がほとんど最終学年になっても身に付いておらず,卒業間際になって予備校の講師によって再度,学習することになっているのが現実である.また,ただでさえ雑用に忙殺されがちな薬学部の教員において授業準備の負担はかなり大きなものであり,実際,その負担を減らすために,毎年,同じ資料で同じ講義を繰り返さざるを得ないのが現実である.これらの解決策として,知識を得るための授業は全て動画でアーカイブ化し,なおかつ,全ての大学の講義を公開することで,誰でも,どの大学の講義でも選べるようになることを提案する.これは,過渡期に限られ,最終的には,1つの教科において2~3人の学習効果の高い教員のみが全国の大学から選抜され,特別報酬を得て講義もしくは動画を作成するようになれば,学習者にとっても,教員にとっても,メリットが大きいのではないだろうか.もし,仮に,予備校の講師の講義の方が学習効果が高いのであれば,それを優先すれば良い.これは,大学経営上の利害関係の問題を産むであろうが,最も優先すべきなのは,「学習者への教育効果」ではないだろうか.また,これにより,全ての教員は「知識を使う」トレーニング,すなわちPBLに時間をかけられることになる.そのため,教授になるかどうかは,論文数で判断されるのではなく,ファシリテーション能力で判断されることになる.大学の研究はあくまでも「教育の一環としての研究」であり,教育力で地位が決まるべきであり,論文の数や質など,研究者としての能力で決まるべきではない.したがって,最も研究力や政治力がある人間が教授,学部長,学長になるのではなく,最も教育力のある人間がその地位に就くべきであると主張する.これにより,余力ができた現場教員は,より一層,学習者の薬学生,一人ひとり に時間と労力と気持ちを割けるようになるだろう.
薬学教育が目指すべき方向性の説明として20年以上, 繰り返し伝え続けている 「二人の頭痛の患者」 という事例を紹介する.
患者Aのケース
【病院にて】
医師:今日はどうされましたか?
患者:頭が痛くて…….
医師:いつからですか?
患者:三日前からです.
医師:頭痛薬は飲みましたか?
患者:いいえ…….
医師:胃は弱い方ですか?
患者:えっ?
医師:胃は弱い方ですか?
患者:まぁ…….
医師:そうなのですね.では,頭痛薬を処方しておきますから様子を見てください.お大事に.
【薬局にて】
薬剤師:薬剤師の●●です.今日は,どうされましたか?
患者:頭が痛くて…….
薬剤師:そうなのですね.医師からは,何か言われていますか?
患者:頭痛薬を出しておくって…….
薬剤師:そうですね.頭痛薬と胃薬が出ていますね.このお薬は飲んだことありますか?
患者:いえ…….
薬剤師:胃に負担があるので,胃薬とセットで食後に飲んでください.頓服と言って,痛いときだけ飲むお薬です.続けて飲むときは6時間くらい空けてくださいね.
患者:あ,はい…….
薬剤師:お大事にどうぞ.
患者Bのケース
【病院にて】
医師:今日はどうされましたか?
患者:頭が痛くて…….
医師:いつからですか?
患者:三日前からです.
医師:頭痛薬は飲みましたか?
患者:いいえ…….
医師:胃は弱い方ですか?
患者:えっ?
医師:胃は弱い方ですか?
患者:まぁ…….
医師:そうなのですね.では,頭痛薬を処方しておきますから様子を見てください.お大事に.
【薬局にて】
薬剤師:薬剤師の●●です.今日は,どうされましたか?
患者:頭が痛くて…….
薬剤師:そうなのですね.医師からは,何か言われていますか?
患者:頭痛薬を出しておくって…….
薬剤師:そうですね.頭痛薬と胃薬が出ていますね.このお薬は飲んだことありますか?
患者:いえ…….
薬剤師:胃に負担があるので,胃薬とセットで食後に飲んでください.頓服と言って,痛いときだけ飲むお薬です.続けて飲むときは6時間くらい空けてくださいね.
患者:あ,はい…….
薬剤師:お大事にどうぞ.
患者Aは,家族に脳腫瘍が多発し,自分が脳腫瘍ではないかと疑っている.頭痛はそれほどではないので「頭痛薬はゴミ箱に捨てられる」ことになる.
患者Bは,仕事が忙しく徹夜が続くことが多く,その度に,慢性的な頭痛に悩まされている.頭痛薬は効かなくなってきており,常にオーバードーズしている.もちろん,他の病院に通い,他の薬局からも,貰っているがお薬手帳は薬局ごとに使い分けているので,誰も把握していない.
この2人を「同じ」とするのが,現在の薬学教育の成果(もしくは副作用)である.この2つのケースを明確に区別し,それぞれに対して適切なアプローチを実施できる薬剤師を育てることが薬学教育の目指す方向性であると提案する.
もし,国家試験に繋がらないというなら,国家試験の方を変えたらよい.医師の国家試験は,もう基礎は単独では出題されず,その知識をベースとした応用問題の一部として出題される.それは,後追いという意味ではなく,参考にしたら良い.また,そもそも,現在の薬剤師国家試験は,薬剤師の資格のための国家試験であるにも関わらず,薬剤師が実際の業務に役に立っている知識は,正直なところ,多くて半分以下,実際は4割程度ではないだろうか.つまり,そもそも,国家試験が現場と教育のミスマッチの原因になっているのである.100%とは言わなくても,せめて8割~9割は現場で活用できることを学ぶべきであるし,また,それが国家試験に出題されるべきであると考える.現在,出題されている残りの「使わない6割」の内容は,選択科目にして国家試験の内容からは外したらよい.
この話題の最後に,もう1点,付け加えておきたいことがある.それは,ビジネスの観点から言えば,大学は単に薬学生から学費を集めて教員に再分配しているだけであり,教員の生活は薬学生の学費によってまかなわれているとことである.その意味で,構造上,教員は学生に雇われているのであり,大学側のニーズではなく,薬学生側のニーズに応えるべきであり,そもそも,その2つのニーズに齟齬があるということは,大学のマーケティング不足を意味しているということである.
薬学生の言葉で,もう1つ気になることがある.それは,「将来の夢や希望が持てない」ということである.これも,薬学部に限らず,あらゆる大学生が共通に感じている課題だと考える.これは,バブル世代が負の財産を残した結果,失われた30年を生きてきた学生にとっては,至極,当然の感覚だろうとは思う.ただ,別の意味で私たちシンポジストも気になっていたことが3点ある.1点目は,は77大学(79学部)2万人以上の薬学生と接してきて,「大学がどのような薬剤師を育成したいのか」を認識している学生が皆無だということである.強いて言えば「国家試験に合格すること」をゴールと設定していると認識している学生が多数いるということである.言うまでもなく,国家試験に合格することはゴールではなくスタートである.このスタートラインをゴールだと認識させてしまっている実情において「どのような薬剤師になるか」という将来目標を定めることは皆無であり,当然,薬学生が未来に夢や希望を持つこともないだろう.2点目は,そもそも,77大学の薬学部は,同調したいのか差別化したいのか不明であるということ.もちろん,同調と差別化の間で,独自の地位を固めよう,もしくは唯一無二の方向性に進もうという意図も感じられない.強いて言えば,薬剤師になれない4年制の薬学部において,いくつか個性が見られる程度である.これは,薬学部を目指す高校生にとっては「どの大学に行っても同じ」という印象であり,もちろん,薬学生においても「どこに通っても同じ」であり,敷かれたレールを走るだけの大学生活に加えて,元々受け身の資質をもった薬学生たちが必修授業ばかりで自ら選択する能力を育成されずに国家試験を目指すという流れにのったまま卒業を迎えれば,将来のことなど考える時間もないはずである.将来のことを「考える時間がない」にも関わらず「夢や希望が持てない」という意識はあることに,この問題の根深さを感じる.3点目は,そもそも,薬剤師は「夢や希望が持てない職業」なのだろうか?薬学生が将来に夢や希望を持てないのはいくつか理由があるように思う.1つ目は,薬学部を目指した動機である.私が医学部の教員をしていた際に衝撃を受けたのが,医学生の多くは「医師になりたいわけではない」ということである.実際,心から医師を目指しているのは,およそ1/3程度であり,他は,「親が医者だった.」「家を継がなければならない.」など,医師になる以外に選択肢が無かったか,ただ単に「頭が良かった」ため「医学部に入学できるから入学した」という動機である.薬学部も似たような状況である.私たちは何万人もの薬学生と接してきたが,薬剤師という仕事の本質をきちんと理解していて,なおかつ「薬剤師になりたい!」と心から熱望して薬学部に進学した人間は,ほんの数名である.他は,「親や教師から勧められた」「手に職を」「女でも稼げる」「推薦枠があった」「実家が薬局で」「医学部が無理だったし,看護はキツそうだから」「化学が好きだった,得意だった」などの動機がほとんどである.このような動機で入学してくれば,「どんな薬剤師になりたいか」などという方向ではなく「国家資格を取得する」ことやただ単に「薬剤師になる」ことがゴールになるのも無理はない.では,繰り返すが,薬剤師は「夢や希望が持てない職業」なのだろうか?絶対に「否」である.私は,今の薬剤師を取り巻く環境が素晴らしいとは思えないが,薬剤師という仕事の素晴らしさは心から主張できる.薬学部で学んだ全てのことを活かせば,夢や希望に溢れた毎日を送ることは十分可能である.しかし,現実,そうはなっておらず,多くの薬剤師は夢や希望に溢れていない.夢や希望が持てないもう1つの原因が「調剤」である.多くの薬学生は「調剤」という仕事を実習で見て「幻滅する」のである.先に,実習で患者と接することで「授業の意味が分かった」という話題があったが,意味がわかったとして「マイナスがゼロになった」だけであり,夢や希望には繋がらない.はっきり明言するならば,もはや「調剤は薬剤師の仕事ではない」のではないだろうか.私は20年前から「調剤なら2年で十分.4年も勉強すれば調剤室の外,薬局の中(すなわち患者対応)がメインの仕事であり,6年も現況すれば薬局のある地域に貢献することが仕事になる」と主張してきたが,薬剤師会を始め,「調剤という職能を薬剤師の仕事として獲得してきた世代」からは大きな反発があった.もちろん,いわゆるパパママ薬局の状態から保険調剤という業務を獲得したことで現在の調剤薬局という業界の活況があることは間違いなく,その点については,心からの敬意を表する.だが,誤解を恐れないで言うならば,もはや時代遅れなのである.この点については,後の現場の話の話題でも詳しく触れるので,ここでは,「薬学生が将来に夢や希望を持てなくなっている原因の1つに調剤がある」という点についてのみ強調したいと思う.今回の学会の講演で「DoingではなくBeingが大事」という話題があったが,組織開発の観点からは,そのような議論は20年前に終わっている.DoingもBeingも,いずれも「今」にフォーカスした概念であり,未来からの計画や逆算という視点が不足している.現在は,未来から逆算するBecomingが最先端概念であり,これを認識することで,夢や希望も含めて「将来」という観点が教育にもたらされる.最早,過去(昭和)の延長戦の「今」を繰り返しても「未来はない」ことを認識する必要がある.
先の平井氏のショートプレゼンテーション内の標準化(均質化)と差別化の話題があった.薬学教育は平均化を進めてきたことにより,いわゆる「ダメ薬剤師」は淘汰された.それと同時に,均質化が進み,「個性的薬剤師」や「良い薬剤師」も淘汰された.これが「平均化(均質化)の副作用」である.この問題は,これまで,表面化されてこなかった.なぜなら,薬剤師が平均化したことによる問題は,患者の家庭で発生しているからである.それは,「患者が薬を飲まない」という問題である.
薬剤師はまじめにOSCEを勉強し,服薬指導の際に,自己紹介をして,今日はどうされましたか?と尋ねる.これは,どの薬局に行っても大差ない.これによって,薬剤師の対応は平均化(均質化)したが,その結果,不均質である患者の対応にバラツキが生じているという現実である.薬学教育の話題の際には触れなかったが,現場からは「OSCEの評価に模擬患者のフィードバックを含めるべきだ」という意見が多数聞かれた.これは,私も医学部へのOSCE導入を指導した経験から,薬学部におけるOSCE導入の際も,模擬患者評価を強く推奨した.その理由は,180 cm × 100 kgのマッチョ男性の「おはようございます」と150 cm × 40 kgの萌え系女性の「おはようございます」は,相手に与える影響が全く異なるからである.そのため,薬剤師側を均質化すると,患者に与える影響が不均質になってしまう.患者に与える影響を均質化するためには,薬剤師側のアプローチを調整する必要があるという考えに基づく.しかし,模擬患者の評価が均一にするのが難しく試験としての体を成さないという理由で却下された.例えば,挨拶を学習する際に「おはようございます」が先か「(あなたに会えてうれしいという)心を込める」のが先かという型が先か心が先かという議論がある.これは,どちらが正しいというより状況によるのだが,今回の薬学部のOSCE導入という話題においては「型が先で,後から型に心を注ぎ込む」順番が優先されたということだ.しかし,心を注ぎ込むことを怠ったため,型だけが独り歩きし,金太郎飴,すなわち,自動販売機でも代替可能な状況になるというOSCEの副作用が発生した.正直,「正直,平均的な薬局なら自販機で良い」と多くの患者が思っている.先にも述べたが,OSCEの効果としては「態度の悪い薬剤師」を排除する底上げ効果は一定以上にあった.しかしながら,それは,「態度の良い薬剤師」も排除することに繋がった.その結果,「低め安定」という現状が生まれた.それが,不均質である患者とのミスマッチを産み出し「患者が薬を飲まない」問題の解決を妨げている.患者が薬を飲まないことそのものは患者自身の問題であるが,その問題を解決するのは,薬剤師の仕事である.そして,それを均質化が妨げているならば,均質化の問題にも手を付ける必要がある.また,均質化は薬剤師の将来像の問題にも関わってくる.均質化はマニュアル化である.マニュアル化できることはIT化できることである.IT化できるということは,その仕事は不要になるということである.これが,薬剤師不要論や薬剤師淘汰論など「薬剤師が余る」という発想に繋がっていく.しかしながら,薬剤師は余らない.なぜなら,主な就職先である保険調剤薬局は,保険というシステムを活用しながらも,主に株式会社だからである.特に上場企業は,株主対策として会社が成長している姿を見せなければならないが既存店舗のコスト削減及び売り上げの最大化は限界である.従って,必ず,毎年,新規出店する必要がある.減益になったとしても,増収しているという姿を見せることの方が優先のため,必ず新規で出店する.その際の需要が薬剤師の供給とほぼ同程度であるため,大手同士の合併による店舗削減や出店ペースの鈍化が発生しない限り,薬剤師は余らない.また,新卒採用においても,大手は採用することが可能だが,90%を占める中小の薬局は難しい.従って,ほとんどの薬局は,常に薬剤師を募集し続けている.そのため,地域の偏在はあったとしても,余るのは,まだかなり先の話である.20年前も,薬剤師の供給過剰と言われていた.また,供給面においても,大学数は倍になっている.ところが,未だに,供給過剰にはなっていない.このまま自動販売機化,ロボット化が進まなければ,薬剤師は就職率100%のままだろう.ただ,自動販売機化,ロボット化が進むならば状況は異なる.各店舗に薬剤師は1名で良くなり,その後は淘汰が進むだろう.そこで,生き残るのは,その他大勢に埋没していない「個性のある」薬剤師ではないだろうか.
多くの薬剤師がある程度成長してくると効率化を目指すという点は前に指摘したが,医療現場において最も効率的なのは,上記のマニュアル対応である.そして,マニュアル対応は「患者と関わらない」もしくは「関わっても最低限」であることを重視する.なぜならば,患者と関わることは「非効率」だからである.ただ,現場で患者と対応をしていると「相談したい」というニーズが,物凄く多いということは実感している.しかしながら,患者がそれをすると「やっかいな患者」だと見なされるリスクや,他の患者からの「早くしろ」というプレッシャーを受けるリスクなどがあり,また,そもそも,相談できる雰囲気ではなかったり,相談できるということも知らなかったりするので実行されない.多くの患者は「できるなら相談したい」のだろう.ただし,それも「無料」という条件付きに限っての話である.お金を支払ってまで相談したいかというと,現状,そのニーズは少ない.一般的な医療が安価(むしろ,安すぎる)であることも背景にあり,相談にお金を支払うことへの抵抗感が強くある.また「支払う金額以上のメリットが期待できる」という点についても理解が得られていない.このように,「ニーズがあってフィーがつかないところ」にこそ保険をつけるべきではないだろうか.実際に,現場の薬剤師に相談行為を実施する多くは「若者に説教したい」「若者に話し相手になってもらいたい」高齢者であることを実感している.そのようなニーズには,むしろ保険もつけずに有料化する必要があるだろう.それにより,本当に医療相談を必要としている方々のニーズに応えられるようになるのではないだろうか.もう1つ,皆保険で賄うべきものがある.それは,予防である.多くの方が,喫煙者と非喫煙者の肺がん治療の自己負担額が同額であること,肥満者と非肥満者の生活習慣病の治療費が同じであることに疑問を持っている.そして,保険のシステム上の個別化のコストの問題と利権等の政治的な問題により,医療保険の個別化がなされないでいる.それにより,経済力の低い人ほど,健康が後回しになり,医療費を多く使うという結果に繋がってしまっている.これらの問題を解決するために,保健は予防を主に付けるべきである.実際,「患者」になってから反省しても,多くの患者は「患者」になるまでに好き勝手に暮らしてきているので,そこから生活を変えようと思っても,長年の習慣がなかなか抜けない.そのために,皆保険の被保険者には,日々,健康的な生活をしてもらう必要がある.マイナンバーカードと保険証が統合されることにより,個別管理がしやすくなるはずである.それにより,健康な被保険者は保険料の削減,不健康な保険者は保険料の増額が成されるべきである.介護は介護予防に保険がついている(これも,本来は介護予防ではなくフレイル予防に保険をつけるべきであるが).これらを見習って,「健康の維持増進」にさらにインセンティブをつけるべきであると考える.実際,医療現場にいると,全く反省や改善が見られない患者がほとんどである.つまり「患者になってからでは遅い」のである.
「異世界モノ」というジャンルをご存じだろうか.ライトノベルやマンガ,アニメなどで,これまで生活していたのとは全く異なる別の世界に転移もしくは転生させられて始まる物語である.ご存じない方や内容をご覧になったことが無い方は,いくつか手にしてみて欲しい.医療と全く同じ構図に気が付くと思う.ある日突然,患者は医療という世界に召喚され,これまでの日常とは全く異なり,病気と闘うという使命を負わされる.皆さんにとって日常である薬局も,患者にとっては完全に「異世界」である.調剤室の中などもう「ダンジョン」と言っても差し支えないだろう.相手の立場に立つのは,とても難しい.自転車と自動車の両方を運転する方なら,実感があると思うが,自動車を運転している際は「自転車が邪魔だ」と思うもので,自転車を運転しているときは「自動車が邪魔だ」と思うものである.特に,医療者は,特別扱いで医療を受けるため,純粋に患者体験をする経験がほとんどないため,患者の立場に立つのが難しい.更に問題を根深くしているのは,日々,多くの患者に接するために「自分は患者のことを理解している」と思ってしまいがちなところがある.ハッキリ言えば,医療者は患者のことをほとんど理解していない.あなたが理解だと思っているのは,単に「解釈」である.あなたの理解しやすいように患者を歪めてわかったつもりになっているだけである.共感しているだけなのに同感しているつもりになっているのである.あなたが薬学生のとき,下級生の時は高校の時の友達とも話が合ったかもしれないが,上級生になってくると,既に,話が合わなくなってきていることを実感しただろう.その合わなくなっている友達の方が,いわゆる患者の層である.つまり,薬学生の時点で,既に卒業間近になってくると,患者とズレが生じているということである.それから,薬剤師は更に経験を積んでいく.しかし,それは,患者から遠ざかることに他ならない.薬剤師がレベルアップすればするほど,患者からは遠ざかるのである.薬剤師として数年もすれば,もはや「普通の患者」とのやりとりは,完全に異文化交流状態である.以前,ある国立の大学病院の院長が,自分の病院の接遇改革に取り組んだことがある.そのきっかけが,自分が自宅で倒れて入院したことである.それなりに特別扱いであったにも関わらず,自分の病院の接遇がどれほど酷いかを身をもって実感したからである.しかも,そうなる前は,自分たちの病院の接遇に対して問題を感じたことがなかったのである.どれだけ,医療者側が医療者側のしたい接遇を患者に押し付けているのか,患者が求めることを実施していないのかを患者の立場になって初めて自覚したのである.医療者側がしたい接遇を完璧に実行していたとしても,それは,患者が求めているものとは全く別物である.薬剤師は処方箋を自分の薬局に持ち込みがちであるが(売り上げに貢献するのは良いことではあるが,今回の文脈の目的は別),あなたも,是非,知らない薬局で調剤されてみて欲しい.もし,それで,違いを感じられなければ,いわゆる異世界に相当する体験(例えば,メイドカフェやフェス)をしてみて欲しい.ただでさえ,医療者は医療者同士のみで交流しがちである.いわゆる,患者になる前の普通の方々との接点を是非,増やしてもらいたい.
ここで採りあげた以外にも,フロアも含め多くの話題が提供されたが,紙面の都合上割愛する.以下,参加者がシンポジウム中に書き込んでくれた全ての生の声を列挙するので参考にしていただきたい.キーワードだけだが,それでもシンポジウムの雰囲気は想像できるのではないだろうか.「私たちの感覚だと現状維持は退化だが,バブル後の世代は良い意味で使う.だって,生まれてから良くなったことがないのだから.」「薬学人のアイデンティティ=薬学人の独自性=薬学人にしかできないこと=薬学人以外にはできないこと.」「自己実現=自分にしかできないこと=薬学人の中でも自分にしかできないこと≠他の薬学人ができること→良くも悪くも均質化志向の薬学人の中でオリジナルはレアキャラ→そこで私,みどりさん,のぶさんのレアキャラ3人衆を登壇させるという流れ.」「コピーではなくオリジナル.」「アイデンティティや自己実現のためには,患者参画教育や学習者参画教育が必要→そうではないと,医療者側や教育者側が自己を押し付けることになる.」「自己がないなら探さないと→自分探しの旅に出がち→自己は自分の中にしかない→自分の中に見つける手段が外部からの刺激→その1つが旅であり,患者であり,教育者.」「『大阪府西淀川区のうさぎ薬局(自己実現の象徴)』と『レベルが上がってもスライムを殺し続ける薬局』」「自己実現の手段が仕事←何のために働くのか?←何のために生まれたのか?」「学部長や理事長こそ,今日のシンポジウムを聞くべき.聞いてほしい.」「(全く同感という大学教員のコメントを受けて)このシンポジウムの内容は,大学だと受け入れられないと思いますので,この意見に同感しつつ,学内に居られるあなたは凄いと思います(シンポジストより).」「薬学生として何を目指せばよいのかわからない.それを,自分自身で見つける前に,提示されてしまうことも問題.」「72大学みていると,差別化したいのかしたくないのか,独自性を出したいのか出したくないのか.」「何を目指せば良いのかがわからないのは学生だけじゃない問題.」「教員も薬剤師も製薬企業のサラリーマンも何を目指せばよいのかわからない.」「企業理念やアドミッションポリシーがいきわたってない問題.」「まぁ,ビジョンのくせに文章だけどね.」「教員はどうしてもコントロール欲求をコントロールできない.教育者は周囲に対して自分の正当性を主張したい.」「教員の数が少なくて,効率化せざるを得ないところがある.」「現場の先生方は一生懸命やっている人が多いことはわかっている.」「授業負担はIT,オンラインで解決.」「授業負担が減ればもっと,ワクワクしながら教育できるし,学生にも意識を向けられる.」「もう,国家試験の内容は予備校に任せて,それをどう応用するかに授業は振り切るべき.」「ワクワク=イマジネーション+エモーション.」「ワクワク不足.」「教員がワクワクしていないと,学生もワクワクしないし,患者もワクワクしない.」「患者もワクワクしたいし,医療者にもワクワクしていて欲しい(この辺り,異論もあるので,そういう医療者がいてもよいというか,患者に選択肢が必要).」「エモい!→エモい授業を!→この処方箋エモい!→この学会エモい!」「教員が自己実現のために学生を利用するっておかしいでしょ?まぁ,それをおかしいと思わない人たちが日本では,多いのだけど.」「授業が楽しくない!楽しくてはいけないのか?」「各大学の授業を公開して欲しい!→各分野の72大学の講義を比較したい!」「予備校が入ってくる意味→国家試験予備校とそれ以外の意味→どうせ予備校なら1年から国家試験対策をやれ.」「今の薬学教育は,最低限を規定しているのに,それが,最高限に,上限になっている.」「厳しい提案をする人と,でも先生も頑張っているよねっていう人もいるのが良い.幅があるのが良い.薬学生は,均質に見えて,そういう,フリをしているだけで,心の中では,多様だと思っているので.」「公衆衛生薄い問題.」「6年制→もっと地域に出ていかないと.」「薬剤師の質問題→向き不向き問題.」「薬学部も増えてきたので,面接の際に資質を確認しないと(特に病院は).」「病院向きのヒトと患者向きのヒトは別の事が多い.両方はなかなか→バイリンガル問題と通じる.」「HP:経済的なことが気になる人はダメ.他の医療職との関係重視.」「調剤:経済的なことを重視.マーケティングも.患者との関係重視.」「診療報酬的にギリギリ.」「余計な仕事が多い.」「2040年の薬剤師像はアンドロイドと自販機からあなたへ.」「2040年の薬剤師像は点数のためからコンサル(自由診療)へ.」「2040年の薬剤師像は保険にしがみつかない(cf. 漢方薬局).」「2040年の薬剤師像は薬剤師のプライマリーケアの最前線.」「2040年の薬剤師像→薬剤師は健康なときから亡くなるまで.」「葬式に呼ばれる薬剤師に.」「薬局は混合診療問題から解放されているので,もっとちゃんと,ビジネス(お金をとれる仕組み造り)をしたらよい.」「ロボット薬局が広まっていくので,薬剤師の職能は相談とコンサルテーションで,家庭内にもっと入っていくようにならないと.」「医薬分業のメリットを患者が感じられていない.」「保険に頼るなら公務員化したら?その方が,相性が良い.」「学長や理事長に聞かせたい話ばかり.」「患者や学習者の薬学生の参加が少ないもの問題だが,現場の薬剤師,特に,病院薬剤師の参加が少ないことが問題.特に偉いポジションのヒト.もっとそういう人にこの話を聞いてもらいたい.」「コロナ医療の最前線は薬剤師.未受診患者が薬局に押し寄せている.保健所の指示で自宅待機になった方々がOTC対応になっている.TEL相談も鳴りやまない.」「無料で相談やるとTEL相談が鳴りやまない.無料は良くない.」「有料と無料があるとトリアージできるのは医療にとって良いことだけどね.」「保険×株式会社の副作用(有害事象,悪い面).」「癒着というか利害関係(求められているものではなく,効率的に儲けたい).」「患者の声が活かされない.」「患者視点を取り入れるために人類学や心理学などが必要では?必要だけど,全部がマスターできないよね.身に付けられないよね.てか,もっと,いまのままでも,できることがあるはずでは?できることから,はじめよう!」「創薬にも患者の声を.」「利益相反の問題.」「製薬企業が患者の声を求めだした.」「第一三共の事例.」「単なるモノヅクリからの脱却.」「医師は方針が決まっても,現実から逆算してつなげる.薬剤師は,方針通りにやって,現実とつながらない.」「医学は基礎と臨床で,なんとなく言葉が通じる.それは,基礎やっている人も臨床経験があるのと,患者の診断治療という目指すところが共通だから.薬学はバラバラ.それで良いと思っているが,どうも,統一したいという力が働きがち.」「医師は,診断はAルート通ってもBルート通っても,出した診断結果が同じならOK.なので,方法にこだわらないところがある.薬剤師は,ルート(方法や手段)にこだわって,結果がバラバラになりがち.」「薬剤師の職能は薬ではなく患者と係ること.」「若い人に説教したい年寄りがたくさんいる.そういう人には,話を聞くのにお金を貰わないと.」「人それぞれ,患者もそれぞれ.」「人に対して興味を持つ.モノではなく.」「実際,薬局などの現場にいると,マニュアル通りというか型どおりだと,早く終わる.効率的.それが,待ち時間を減らすという患者サービスに繋がるとともに薬局の売り上げの最大化にも繋がる.」「薬局は,保険に頼るモデルは辞めよう(もう,時代遅れでは?).」「均質性への違和感と薬剤師の仕事における個性の出し方の難しさ.」「ダイバーシティと同調圧力.」「同感と共感の違いに基づく前提の違い→医師頭.」「患者にとって薬を貰うことは異世界モノのストーリー.」「『調剤室=異世界』→『薬局=異世界への入り口』→『薬局の外(普通の世の中=社会)』→『患者=世の中(社会)』→『異世界に身を置く薬剤師は,働くことで患者と接し,社会の情報を得る』→『そのうち,異世界でも居場所がなくなる(まだ,資格はないが,現実的に,調剤なら2年間勉強して調剤師の資格を得ればよいし,ロボットや自販機でOK)』.」「薬剤師は社会を知らない(知れない):病気になる前の人と付き合う機会がほとんどない.患者には,患者が病気にならないと会えない.」「薬中心社会→薬のみが家庭と医療と介護をつなぐ(医食同源の意味では食も).」「ゲートキーパー(最後尾)ではなく,ゲートオープナーとしての薬剤師(最前線は薬剤師),ファシリテーターとしての薬剤師.」「患者とのパートナーシップ 4段階.」「ちょうど間に存在する.会話が通じる限界:医師⇔薬剤師⇔薬学生⇔一般人(患者(エキスパート患者を除く)).」「薬学生は,一般人を理解できるギリギリの存在.」「均一じゃダメだと知らしめたい!量産型薬剤師を輩出しちゃダメってことでは?」「コミュニケーション能力の高い薬剤師がオンライン相談センターに居れば良い→実際,コンビニの宅配ボックスOKの流れ.」「薬剤師はサイエンティストだと自覚していて,サイエンティストにとって想像力は,ファンタジーの世界だと思われていて,ファンタジーは,サイエンスじゃないから,薬剤師は,想像力を活用しないようにしがち,想像力は無視しがち.そうすると,目に見えるものだけにフォーカスしがち.」「学生参加がほとんどない.患者は私ともう1人くらい問題.」「患者団体の代表など一般的とは言えない特殊患者ばかり.もっと一般患者に参加してもらいたい.」「この学生参加,患者参加が,本来の学会の目指すところ.」「会員薬剤師はホストで,ゲストに学習者と患者を迎えてやるべき.」「このままだと学会は単なる内輪受け.」「ここ(コメント欄)に書ききれない思いを抱いている.」「シンポジウム問題.(ゲストとホスト)」「患者を上手く使え.使い方は,私が相談に乗ります.」「患者の話はドラマ.教育も医療も,というより,喜び.歳をとるともっと喜びが増える.」「薬学生の代表であるはずの薬連が断ってきたという現実が学生の興味関心の現れ.」「生活の言葉におきかえる(医師と患者の言葉がわかるバイリンガル,医療通訳業務).」「エビデンスの翻訳こそが薬剤師の職能.そのままなら機械で良い.」「一人ひとりの違いを引き出す能力.」「そもそも『薬剤師は何ができるのか」患者が知らない.」「薬剤師がHPで診察前に患者からききとりをすると医師の診療が早くスムースになるという神戸大学の事例.」「今日のシンポジウムの内容はみんなが思っていることを言語化してくれた.」「薬剤師の発信不足.」「みんなが,活躍するのは20年後なのに,いま,勉強しているのは,20年前の常識.そのギャップは40年.おじいちゃんの時代のことを頑張っているのってどうなの??未来を考えるためにも,想像力が必要.」「『患者は』とか『学生が』とか,ひっくるめるのをやめましょう.一人一人,違う前提で.そしたら,違うものを理解するためには,想像力が必要.」「薬学生は,見てわかる.薬剤師も,見てわかる.白衣で街をあるくのは,薬剤師くらい.それは,どう見られるのかを想像しないから.」
なぜ,今,イマジネーションとエモーションなのか.古くから薬剤師は街の科学者と言われてきたが,科学者であろうとするがゆえに,言語化,数値化できるものに拘り過ぎてきたことは先に指摘した.ただ,そもそも,科学の基本は「仮説検証」である.そして,仮説の立案には想像力が必須である.つまり科学には想像力が必須である.翻って,現在の薬剤師の業務は科学者と言えるであろうか.良く見積もって「科学の知識がある人」ではないだろうか.あなたは,日常の業務で仮説検証しているだろうか.もし,しているなら,それは,想像力を活用しているに違いない.要旨でも触れたが,医療はExperience(経験)からEvidence(根拠)へ.そして,Narrative(語り)へと遷移してきた.これは,個人の経験(Experience)では限界があったものを検証,一般化(Evidence)し,一般論を目の前の患者に応用するために,患者の語り(Narrative)を必要としたものだ.これは,医療者と患者のエンカウント(遭遇)した場面のみに着目したものである.ところが,患者は医療者と会っているときだけ「患者」になるのではなく,一度,病院で「患者化」された一般人は,もう,元の生活には戻れず,そこから先は,召喚された異世界人のように「患者としての人生を生きる」しかなくなる.つまり,医療者と会ってないときも,24時間365日患者は患者なのである.そのほんの一瞬の医療者と会っているときだけで患者を理解した気になっても上手くいかないということが明らかになってきたということである.患者には,患者それぞれの「生活」がある.医療者は患者を「糖尿病の人」や「アムロジン5 mgの人」のように「病気が服を着ている」と認識しがちだが,患者には患者としての「人生」がある.そして,先に述べたように,患者は,その生活にマッチしない医療行為は受け入れることは難しく,その自覚もあり,医療者に生活を知ってもらうことで,それにマッチしたアドバイスを必要としている(場合が多い).鈴木氏は「1日3回食後という服薬指導をやめましょう」と指摘する.それは,1日3回決まった時間に食事をしている人がほとんどいないからである.「患者は食事を食べてないから薬は飲んではいけない」と受け取りがちで,1日2食の人は,1日2回しか服薬しないようになるからである.以前は,「忘れないように」と服薬もれを無くすために1日3回食後と伝えていたのが,現在は,逆に服薬漏れの原因になっているのである.患者と対面したときに,もしかしたら朝ごはんを食べていないかも?と想像することができれば,1日3回食後ではなく,
薬剤師「1日3回決まった時間にご飯は食べられていますか?」
患 者「いえ,朝ごはんは食べません.夜も不規則で…….」
薬剤師「忙しいですもんね!そしたら,ごはんは気にせず,3回飲むことを優先してください.できるだけ決まった時間に朝昼晩とお薬を飲んでくださいね.」
という会話がなされることだろう.想像力が足りなければ,不適切な服薬やゴミ箱に捨てられてしまう薬を増やすことになるだろう.この構図は,薬剤師と患者の関係だけでなく,教育者と薬学生,親と子,上司と部下など,あらゆる場所で見られる.そして,その関係性の構築のためにイマジネーション(想像力)が必要なのである.私が在宅医療に関わりだしたのはもう20年も前のことであるが,ある寝たきりの爪白癬の患者がいた.その患者は,医療ベッドに横たわっていたが,バリアフリーで風呂まで移動できるようになっていた.医師は爪白癬の患部に意識を向けていた.看護師は,患者や家族に注意を向け,話しかけていた.私は少し離れた場所で残薬整理をしながら,ニゾラールクリームを塗って,同じ靴下を医師がはかせることを,そして,足元のマットと風呂の前のマットに先月もついていたシミがあることを観察していた.そして,靴下,布団,マットが感染源となり,爪白癬が全身に広がることを想像していた.当時,私は若く,そのことを他の医療者や家族に指摘することはできたが,対応を強いることはできなかった.そして,1ヶ月後に,全身に感染し,病名は爪白癬(爪水虫)から体部白癬(ぜにたむし)になった.
では,患者の生活に思いをはせるイマジネーションはどこからくるのであろう.それは,相手に対する「興味」「関心」「好奇心」からである.これがなければ,イマジネーションは起動しない.では,「興味」「関心」「好奇心」はどこからくるのだろうか.それはエモーション(感情)からである.したがって,イマジネーションの源泉はエモーションなのである.そして,これは,どれだけ薬剤師業務がIT化されても,機械化されてアンドロイドやロボットにとってかわられても,私たちに最後まで残る「強み」ではないだろうか.
最後に,コロナ禍において主催者側としては意図せずオンライン開催になった今回のシンポジウムだが「思いがけずオンラインならでは」の利点があり,むしろ,対面でのシンポジウムより有用であった可能性がある.
1.対面での開催でシンポジウムを開催すると,双方向性になりにくく,フロアからの発言が期待できない.今回は,予想以上に多くの発言が得られ,双方向のやりとりが活性化した.もちろん,シンポジウム全体の雰囲気が双方向性を意識して設計され,オーガナイザー,シンポジストも全員,参加者が発言しやすい空気の醸成に貢献していたこともあるが,通常のシンポジウムで100件を超える発言があることは,ほぼ,ないのではないだろうか.
2.発言が文章で記録に残ること,参加者は「書く」という行為を通じて,自らの意見を整理することができるためか,まとまったコメントが多かったことがある.更には,発言の際に,匿名性も高く,議論中に「発言と発言者を切り離す」ことに成功していたと思える.これは,日本人が専ら苦手なことであり,なおかつ,会議には必須の要件でもある.
3.更に,シンポジウムだけでなく,学会の全体を考えると,学会の運営費用を削減できるため,参加費を安く設定することが可能になり,その結果,参加費の問題で参加を避けていた学生や患者など非医療者の参加が多く見込める可能性がある.また,参加費に加えて,旅費などの負担が低減することで,更なる参加が見込まれる.今後,薬学生,薬学教育関係者の全員参加を必須とする提言からも,オンライン開催の利点は大きいと考えられる.もちろん,学会=同窓会及び旅行と考えている趣旨をはき違えた方々は対面の開催を希望するだろうが,それこそ時代錯誤ではないだろうか.
学生の発表にもあったように,学会も,安易に対面に戻すことは避け,慎重に,オンラインと対面の双方のメリットデメリットを検討したうえで,主催者ではなく,参加者の希望する方法を採択する必要があると考える.一般的に,患者参加のシンポジウムになると患者VS医療者の対立構造のディベートになりがちだが,今回のシンポジウムでは,薬学生,患者,薬剤師などの垣根を越えて,双方向で建設的な議論ができるということを証明できたと考える.これは,学会全体で同じことを実施することができるという可能性を示せたうえで,薬学関連どころかヘルスケア関連のあらゆる学会において,歴史上,重要な一歩であろう.この成果の芽が摘まれることなく育くまれ,日本各地で医療者,患者,学生,地域の方々みんなでこのシンポジウムのような時間が持てることを,感情(エモーション)を込めて想像(イマジネーション)しつつシンポジウムの報告とする.
発表内容に関連し,開示すべき利益相反はない.