論文ID: 2020-054
本稿では,新型コロナウイルス感染症の拡大により,有機化学および医薬品化学の授業を対面からオンラインに移行した我々の体験を紹介する.有機化学のオンライン教育への移行において,受講生の理解が非常に困難となると予想された内容が分子の3次元構造であった.そこで我々は,立体化学の授業動画においては,Chem3D®で作図した3次元モデルを様々な方向に動かしながら説明する動画を作成した.さらに,受講生の理解促進のために,2次元で描いた化学構造を3次元構造に変換できるオープンソースcheminfoを受講生に紹介した.さらに,医薬品と蛋白質との相互作用をパソコン画面で観察・分析する実習では,Protein Data Bank内の3次元構造表示サイトを用いることで,遠隔による本実習の実践可能性を示すことができた.
This paper summarizes our experiences in changing from face-to-face instruction to online learning during the COVID-19 pandemic. We predicted that it would be difficult to understand the 3D structure of organic molecules in the 2D environment of an online organic chemistry class. Therefore, we created a movie of 3D structures using a virtual molecule editor program, Chem3D®, showing them moving in various directions to explain stereochemistry. In addition, we introduced our students to Cheminfo, an open-source website. Cheminfo was used to draw organic molecules and convert them from 2D to 3D structure. Similar to face-to-face training, 3D views of molecules on the Worldwide Protein Data Bank website provided practical training, enabling students to observe and analyze drug-protein interactions on their personal computers during online learning.
2020年の大学教育は,新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の世界的な感染拡大により対面授業の実施が困難となり,デジタルツールを用いた遠隔学習への急速な移行を余儀なくされた1).デジタルツールを用いた教育の代表例として,大規模公開オンライン講座(Massive Open Online Course, MOOC)が2012年ごろから米国で大規模な提供が行われ始めたのを契機として,2013年に東京大学,2014年に京都大学がグローバルMOOCへの提供を始めている.さらに,2013年には日本オープンオンライン教育推進協議会(JMOOC)が設立され,翌年からはMOOCの日本語版の提供も始まっており,国内でもデジタルツールを用いた教育基盤体制は構築されつつある状況にある.既に薬学教育においても,デジタル教材を用いた授業デザインの実践報告がなされているが2,3),その目的は反転授業方略における事前学習動画の位置づけであり,自宅待機となった学生に対して,全授業をオンデマンド型のビデオ配信として提供する事例はごく限られていた.特に,我々が担当している有機化学および医薬品化学関連科目は,対面授業でも教えることが難しい科目である4).さらに,兵庫医療大学の通信環境が極めて脆弱なため,2020年度前期はZoomやGoogle Meetなどのリアルタイム授業の実施が禁止されたことから,オンデマンド型のビデオ配信を中心とした遠隔授業の可能性を模索した.本稿では,2020年度前期に有機化学および医薬品化学関連の遠隔授業で模索した経緯と試みた事例について紹介する.
我々が担当する1年次生の基礎有機化学I(1単位,90分×8コマ)では,化学構造の基本を理解する上で重要となるルイス構造式の書き方,混成軌道,立体化学を取り上げている.既に対面授業の段階からパワーポイントを用いた授業を行っていたため,オンデマンド型への転換に関する障壁は少なかったものの,授業デザインの大きな障壁となると予想されたのが立体化学の部分である.
分子の立体構造の理解は,医薬品の物性や活性発現機構の違いを理解する上で必須の内容であるが5),平面構造のくさび型表記から空間配置を想像してNewman投影式やFischer投影式などへ変換することに対して,受講生が苦手意識を有している報告もある6).対面授業においては,受講生が分子の3次元構造を視覚化できるように,教員が分子模型を書画カメラで提示し,受講生に分子模型を組み立てさせ,講義室内で教員,チューター学生の指導や隣席の学生同士による討議を行うことで,受講生の3次元構造に対する理解のサポートを行っていた.しかし,遠隔授業では講義室内のような即時サポートができないことから,対面実施の可能性がある後期に実施する基礎有機化学IIの一部内容と立体化学の内容を入れ替えることを検討したが,再履修生の受講内容が2019年度と異なってしまうために断念した.そこで,立体化学の授業動画においては,Chem3D®6) で作図した3次元モデルを様々な方向に動かしながら説明する動画を作成し,手元に分子模型がない受講生でも動画を視聴することで3次元構造をイメージしやすいようにした(図1).3Dモデルを作成する際の細かい工夫として,シクロヘキサンのイス型,舟形配座の安定性の差を水素原子の色を変えて立体配置の違いを提示(図1A),Newman投影式の丸のイメージを持たせるために3Dモデルにおいて前方の炭素原子に比べて奥の炭素原子を大きく色を薄く表示(図1B),Newman投影式からFischer投影式への変換過程をイメージさせるために,主骨格の色を変えて表示(図1C)するなどの例年の説明では行わないような細かい工夫を行った.
Chem 3Dを用いた有機化合物の3次元構造説明事例:A)シクロヘキサンのイス型と舟形の安定性の説明図,B)Newman投影式と3次元構造の比較,C)3Dモデルを用いたNewman投影式からFischer投影式へ変換ステップ説明(実際の授業動画では,上記の図だけでなく3次元構造をいろいろな方向に回すことで分子模型の代替となるようなイメージを持たせようとした.)
しかしながら,受講生が立体化学の演習問題を解く際に,3D構造を自分で組み立てて考える際に有償のChem3D®を用いることができない問題が生じた.そこで,2次元構造で記載した化学構造を3次元構造に変換できるオープンソースのWebサイトを検索したところcheminfo7) が見つかったため,Moodle上とメールで学生にURLを提示すると共に,当該サイトの利用法の動画を配信した(図2).
オープンソースの化学構造描画サイトcheminfoの利用(http://www.cheminfo.org/Chemistry/2D_to_3D/index.htmlより作成).
オンデマンド授業による成績への影響について,2019年度と2020年度の定期試験で比較した.2019年度は選択式70%(22問),筆記式30%(8問),試験時間60分で実施したのに対し,2020年度は,大学の感染対策ガイドラインにより試験時間が45分と限定されたため選択式80%(20問),筆記式20%(4問)と筆記式の問題を減らして実施した.このため,一概に対面授業との得点率の比較はできないものの,総合得点率の平均は,2019年度に比べて5%程度低下し,特に立体化学の問題および筆記式の正答率が低い傾向であった.この結果に対しては,推測の域を出ないが,オンデマンド型のみで立体化学への理解が進まなかった点,例年実施する毎回の授業で行う小テストが選択・筆記混合式から選択式のみになり,自身で化学構造を書くプロセスが少なくなったことが起因していると考えている.また,5段階評価で行われる授業評価アンケートの評定平均は,2019年度の4.21から3.80へと大幅に低下した.年度間で学生が異なるものの,オンデマンド型のみで有機化学の授業を展開することの難しさを痛感する結果であった.
2020年度後期も原則オンデマンド型ではあるが,後期授業開始時に分子模型を全員配布できたため,受講生の3次元構造に対する障壁はある程度緩和されるものと期待している.しかし,平面構造のくさび型表記から対応する分子構造を模型で組み立てることが難しい学生も一定数存在することから,cheminfoまたはMolview8,9) などの2次元構造を3次元構造へと変換するツールを積極的な活用を推奨することで,分子模型の組み立てが困難な学生のサポートツールになるものと考えている.また,2021年度以降には2020年度で作成した動画を利用した反転授業の実施することを計画している4).
2年次の物理系薬学実習において我々が担当する実習は,蛋白質構造データバンク(Protein Data Bank, PDB)10) に登録されている蛋白質X線結晶構造を受講生が実際に操作して,蛋白質の1次構造,2次構造および医薬品が結合するポケットの存在および医薬品と蛋白質との結合に関与する種々の相互作用について学ぶことを目的としている.例年の実習では,情報処理演習室のコンピューターにダウンロード済のViewer Lite 5.0という蛋白質構造可視化ソフトを用いて,パソコン画面上で実習を行っていたが,今年度は対面実習が不可能であった.
そこで,当初案としてはViewer Lite 5.0を受講生の自宅のパソコンにダウンロードさせて遠隔実習を行うことを計画したが,受講生の10%がパソコンを自宅に持っていない状況であったため断念した.そこで,受講生自身がViewer Lite 5.0の代わりに構造を動かせるオープンサイトを探したところ,構造提供を行っているProtein Data Bank (PDB)* 形式で蛋白質構造が表示できるサイトを用いた 11).2020年度の実施例を図3に示す.2020年度は,新型コロナウイルス治療薬を題材にする方が受講生の興味を惹くと考え,レムデシビルとRNAポリメラーゼの結晶構造を題材とした12,13).具体的には,α-ヘリックスとβ-シートの表示(図3A),レムデシビルと蛋白質の相互作用(図3B),RNAポリメラーゼ表面構造の(図3C)などが表示することができ,対面実習の実施内容のうち,結合部位付近のアミノ酸構造を細かく分析する以外は全て実施可能であった.そこで,受講生には,PDBサイトにアクセスして蛋白質構造観察を行うことを伝えていたが,タブレット端末で受講している学生が蛋白質構造をうまく動かせない等の問題があった.その結果,最終的に本実習は,実習レポートの作成に必要となる内容は,我々がPDBサイトで蛋白質構造を提示・操作する動画を配信することへと変更となり,PDBサイトによる観察はレポートに関与しない蛋白質構造の任意観察を推奨するに留まった.このため,受講生の何%がPDBサイトを活用したかは判断できないが,オープンサイトを活用することで,遠隔でも本実習が実現できる可能性を示せたと考えている.
Protein Data Bank(PDB)サイトを用いたレムデシビル-RNAポリメラーゼ複合体構造の考察の実習内容;A)3D Viewサイトを用いた蛋白質全体構造表示によるα-ヘリックスとβ-シートの表示,B)リガンド蛋白質相互作用の表示,C)蛋白質表面構造表示(The nsp12-nsp7-nsp8 complex bound to the template-primer RNA and triphosphate form of Remdesivir (RTP), PDB ID: 7BV2より作成).
新型コロナウイルス感染症の感染拡大により遠隔授業でできること,できなかったことを考えさせられる半年間であった.本稿で紹介した取り組みについては,2021年度以降に再開される対面授業で実践できる内容もあり,自身の授業内容で不十分な点に気付くことができた良い機会となった.しかしながら,例年,著者らがチーム基盤型学習を行っている授業14,15) で受講生同士が討議する機会や学生チューターが下級生指導を行う機会を提供できなかった点など,感染拡大を理由に実現が可能であった学習の機会を行う努力を怠った点も多々あると感じている.
文部科学省の対面授業実施に対する強い推奨により2021年度は,ほとんどの授業が元の対面形式に戻ると推測される.我々の簡単なアンケートではあるが,学生は一方的な講義に対して,オンデマンド型を望んでいる傾向が見られる.このため,大学に登校して受講する対面授業には,一方的な講義以外の内容が求められるようになると推測している.新型コロナウイルス感染症が落ち着いても,ただ感染前に戻るのではなく,対面授業で新たな方策を展開することを,我々教員が模索しないといけないと考えている.
発表内容に関連し,開示すべき利益相反はない.