スポーツ社会学研究
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原著論文
スポーツを「観る」ことと「視る」ことの相克
―駅伝・マラソンを事例として―
杉本 厚夫
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2017 年 25 巻 1 号 p. 35-47

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抄録

 本論の目的は、スポーツを見る行為の意味を解読したうえで、実際に競技場で観る場合とメディアを通して視る場合を比較し、さらに、スポーツを見ることに伴った応援という行為に注目し、主に駅伝・マラソンを分析対象として、スポーツを見るという社会的行為における相克を明らかにすることである。
 スポーツを見るという行為は、「興奮」を求める社会的行為であり、それは、パフォーマンスとゲーム展開という競技性における挑戦と、ゲーム展開にみる物語性にあるといえる。
 また、スポーツのリアリティはテレビというフレームによって転形され、メディア・リアリティをつくりだす。そして「臨場感」のあるものにするために、元のスポーツ・リアリティに回帰される。さらに、スポーツ・リアリティと差異化するために、テレビの技術を使って競技場では見られないような視線を提供する。しかし、それらはあくまでテレビがつくりだした視線であり、見る者が主体的に選択した視線ではない。また、競技場で身体が感じる雰囲気や、プレイヤーからみられているという身体感覚は、テレビでは味わうことはできない。そこには「みる」ことは同時に「みられている」という間身体性は存在しない。
 さらに、スポーツを見ることによって発生する応援は、興奮を呼び覚ませる。とりわけ、応援のための集合的なパフォーマンスが人々の身体に共振し、一体感によって興奮は高まる。しかし、その興奮が暴走しないように、日本の場合は応援団が鎮める役割を果たしている。また、応援による興奮が許されるのは非日常の世界であり、いったんそこに日常性を見出すと興奮は鎮まる。駅伝や・マラソンの場合は、もともと日常の道路を非日常に変えてレースをするわけであるから、ランナーが通りすぎてしまえば、その興奮は日常世界の中で鎮められるのである。
 結局、スポーツを「観る」ことと「視る」ことの相克は終わらない。

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© 2017 日本スポーツ社会学会
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