2025 年 22 巻 1 号 p. 32-41
近年、多くの企業が理念浸透と同時に理念改定を実施している。しかし、従来研究では理念浸透過程の検討が中心で、アイデンティティ拡張を含む理念改定プロセス、特に既存価値観を維持しつつ新たな価値観を統合するプロセスの解明が不足している。本研究は、アイデンティティ・ワーク(IW)理論の観点から、この拡張と改定のプロセスを分析することを目的とした。インタビュー調査、文書分析、参与観察を組み合わせた質的単一事例研究とパターン・ランゲージ法で分析した結果、2つの重要な発見が得られた。第1に、IW活動は組織アイデンティティとの融合、個人アイデンティティの拡張、組織アイデンティティの拡張という3つの活動が、組織アイデンティティの原点を基盤に段階的・循環的に展開されていた。第2に、個人アイデンティティの拡張には、組織アイデンティティとの融合を起点とする経路と、自律的な個人の価値観形成による経路という2つの経路が存在していた。本研究の知見は、理念浸透と改定における受動的浸透と能動的浸透の相互作用に新たな理解を提供するものである。
近年、組織アイデンティティ研究において、アイデンティティの適応と発展のメカニズムが注目を集めている(Gioia et al., 2000; Ravasi and Phillips, 2011)。多くの企業組織が経営理念(以下、理念)を掲げ、社会的存在意義と行動規範を明示している(Ashforth and Mael, 1996)。理念は組織アイデンティティの重要な一部を形成し(高尾・王, 2012)、企業を取り巻く環境の急速な変化に伴い、既存の理念を維持しつつ新たな方向性を示す必要性に迫られている。近年、OMRON、ソニー、資生堂などの大企業において理念の改定が実施されている(王, 2023; 青嶋, 2024; 山内他, 2021)。
理念に関する先行研究では、主に理念制定と理念浸透による組織アイデンティティと個人アイデンティティの融合に焦点が当てられてきた(松岡, 1997; 高尾・王, 2012; 田中, 2014)。同族企業における理念改定研究では、経営陣の刷新に伴うトップダウン型の改定(王, 2023)や、ソニー、資生堂など企業主導で全社的参加を促す計画的な改定プロセス(青嶋, 2024; 山内他, 2021)が研究されてきた。しかし、組織成員の価値観を自然に取り込むボトムアップ型の改定プロセスは、十分に探究されていない。
本研究は、この課題に取り組むための研究文脈として同族系企業に注目する。同族系企業では、大企業と比べて経営層と組織成員の距離が近いという特徴を持つ。この特徴は、日常的な相互作用を通じて組織成員の価値観を把握・理解し、それを組織の価値観として取り込む可能性を高める。
そこで、本研究では、アイデンティティ・ワーク(以下、IW)理論に着目し、理念浸透を進めつつ理念改定に至るプロセスを分析し、組織成員の主体的な価値観形成が理念の発展的解釈と改定につながるメカニズムを明らかにすることを目的とする。特に、経営層と組織成員の距離の近さという同族系企業の特徴が、いかにボトムアップ型の価値観形成と統合を可能にするのかに注目する。分析の焦点は以下の3点である。1点目は、価値観の解釈と実践がどのように組織の理念浸透活動と結びつくのか。2点目は、個人のアイデンティティ拡張はどのように行われるのか。3点目は、個人レベルの価値観の変容がどのように組織レベルの理念改定につながるのかである。
本論文の構成は以下の通りである。第2章で先行研究を展望し、第3章で研究方法を詳述する。第4章では事例分析を通じてIW活動の展開を分析し、第5章で考察を行う。第6章で結論と今後の課題を述べる。
理念は組織の方向性を示す指針として機能し、組織の社会的存在意義と行動規範を明示するものである(Ashforth and Mael, 1996)。
組織アイデンティティは、Albert and Whetten(1985)により「組織の中心的(central)、特異的(distinctive)、永続的(enduring)な特徴」と定義され、「我々は何者であるか」という組織の根源的な問いに対する答えを提供する。組織アイデンティティ研究は主に2つの理論的視点から展開されてきた。社会行為者論(Albert and Whetten, 1985)は、組織アイデンティティを組織固有の本質的特徴として捉え、環境変化に対しても一貫性を保持すべき要素として位置づける。一方、社会構成主義(Gioia et al., 2000)は、組織アイデンティティを環境との相互作用の中で再解釈され、更新される動的な概念として捉える。
このような理論的背景を踏まえ、本研究では理念を「組織の本質的アイデンティティを表明し、環境変化に応じて再解釈・更新される価値体系」と定義する。具体的には、(1)不変的要素(企業目的や存在意義)と、(2)適応的要素(ミッション、ビジョン、バリュー)という二層構造を持つ。不変的要素は組織の永続的なアイデンティティを規定し、適応的要素は環境変化に応じた具体的な行動指針を提供する。この二層構造は、先述の2つの理論的視点とも整合的である。すなわち、不変的要素は社会行為者論が示す永続性に、適応的要素は社会構成主義が主張する環境適応性に対応している。
この二層構造を持つ理念は、環境変化に応じた適応と発展の過程で、アイデンティティの拡張という現象を示す。アイデンティティの拡張とは、組織または個人が既存の価値観を保持しながら、新たな価値観を取り込んでいくプロセスを指す。このアイデンティティの拡張は、より広範な理念改定プロセスの一部として位置づけられ、理念改定は(1)既存の価値観の再解釈、(2)新たな価値観の取り入れ、(3)両者の統合という3段階で構成される。
2.2 理念浸透とアイデンティティ・ワークIW理論のプロセスは、組織から個人への「受動的浸透」と個人から組織への「能動的浸透」という双方向の流れを持つ(北居・田中, 2009)。受動的浸透では、理念が組織階層を通じて伝達され、各階層でその文脈に応じた解釈と実践が行われる。この過程で、理念の認知的理解から情動的共感、そして行動的関与へと発展していく(高尾・王, 2012)。一方、能動的浸透では、組織成員が自らの経験を通じて価値観を解釈し、実践を通じて新たな意味を創出していく。この過程では、価値観と実践の関連づけ(松岡, 1997)や試行錯誤的な自己像の形成(Ibarra, 1999)が見られる。
既存のIW研究では、革新的開発部門のIW活動(Oliver and Cole, 2019)や非営利組織におけるIW活動(Cloutier and Ravasi, 2020)など、特定の文脈における分析が中心であった。また、組織アイデンティティの永続性と変化の両立(Gioia et al., 2000)や、戦略的変化とアイデンティティの整合性(Ravasi and Phillips, 2011)については理論的な議論が展開されているものの、組織成員の日常的な実践を通じた価値観の形成と統合のメカニズムについては、実証的な解明が不足している。
理念改定に関する既存研究では、2つの異なるアプローチが確認されている。第一に、経営層主導のトップダウン型改定である。例えば、OMRONでは経営陣の刷新に伴い、経営層が主導して理念改定を実施するプロセスが分析されている(王, 2023)。第2に、企業主導の計画的参加型改定である。例えば、ソニーや資生堂では、パーパス策定と連動して全社的な参加を促す改定プロセスが実施された(青嶋, 2024; 山内他, 2021)。これらに対し、本研究で着目するのは、理念浸透過程から自然に展開される創発的ボトムアップ型の改定という新たなアプローチである。
この創発的ボトムアップ型の改定プロセスは、経営層と組織成員の距離が近い同族系企業において特に観察される可能性があり、その具体的なメカニズムの解明は、理念改定研究における重要な課題となっている。
2.3 研究課題の導出先行研究のレビューから、以下の3つの研究課題が導出される。
第1の課題は、理念改定における創発的ボトムアップ型アプローチの実態解明である。既存研究では、トップダウン型や計画的参加型の改定プロセスが分析されてきたが、理念浸透過程から自然に展開される改定プロセスについては十分に解明されていない。特に、組織成員の日常的な実践を通じた価値観形成が、どのように理念改定につながっていくのかを明らかにする必要がある。
第2の課題は、理念改定における受動的浸透と能動的浸透の相互作用メカニズムの解明である。IW研究では特定の文脈における分析が中心であり、組織成員の自発的な価値観形成と組織の価値観との相互作用プロセスについては、具体的な解明が不足している。特に、組織成員の日常的な実践を通じた価値観形成が、組織の理念改定にどのようにフィードバックされていくのかという双方向のプロセスの分析が求められる。
第3の課題は、理念の永続性と適応性の両立メカニズムの解明である。組織アイデンティティの永続性と変化の両立(Gioia et al., 2000)や、戦略的変化とアイデンティティの整合性(Ravasi and Phillips, 2011)については理論的な議論が展開されているものの、その実現プロセスについては具体的な分析が必要である。特に、組織の本質的な価値観を保持しながら新たな価値観を取り込んでいく拡張のプロセス、およびそれらの価値観を段階的に統合していく改定プロセスの解明が求められる。
これらの課題に取り組むため、本研究では同族系企業を対象とした質的事例研究を行う。同族系企業では、経営層と組織成員の距離の近さという特徴により、日常的な相互作用を通じた価値観の形成と統合のプロセスを詳細に観察することが可能となる。
本研究では、アイデンティティの拡張と理念浸透の相互作用を理解するため、質的単一事例研究とパターン・ランゲージ法を組み合わせた。質的単一事例研究は、特定の文脈における現象の詳細な観察を通じて、より普遍的な理論的示唆を導出することを可能にする(Yin, 2018)。パターン・ランゲージは、Alexander et al.(1977)により提唱された手法で、実践知を具体的な文脈とともに抽出し、再現可能な形で記述する方法論である(井庭, 2013)。本研究では、この手法を用いて組織成員の日常的な実践から価値観形成のパターンを抽出し分析した。
3.2 調査対象の選定本研究では、以下の基準に基づき調査対象を選定した。第1に、大企業と比べて組織規模が小さく、経営者との距離が近い同族系企業は、アイデンティティ・ワークを通じた理念浸透と改定のプロセスを詳細に観察できる適切な文脈を提供する。
第2に、創業者の価値観が明確に示されつつ、世代交代や事業展開に伴う新たな価値観の統合が求められる同族系企業は、アイデンティティの保持と拡張の両面を観察する上で理想的な研究文脈となる。
第3に、組織成員間の相互作用が比較的密接な組織では、個人と組織のアイデンティティの相互作用プロセスをより鮮明に観察でき、長期的な変化プロセスを追跡するためのデータアクセスが重要となる。
これらの基準に基づき、2022年に理念改定を実施したK社を調査対象として選定した。従業員490名を有するK社は1946年の創業以来、製造業からクリエイティブ領域への事業展開を進める中で、既存の価値観と新たな価値観の統合という課題に直面し、その過程を理念関連文書として詳細に記録している。また、1963年以降の価値観の変遷を追跡可能な資料が保管されており、本研究の分析に適した事例であると判断した。
3.3 研究チームの構成と役割本研究では、組織アイデンティティの拡張と理念浸透の相互作用を客観的に分析するため、複数の専門的視点を統合した研究体制を構築した。研究代表者(筆者)はK社で17年間の実務経験を持ち、2020年から理念改定プロジェクトに参画している。この内部者としての立場は、組織の文脈や価値観統合プロセスを深く理解する助けとなる一方で、特定の解釈バイアスを生む可能性もある。このリスクに対処するため、以下の検証体制を整備した。
第1に、パターン・ランゲージ専門家2名(組織論、知識マネジメントの研究者)による分析レビューを月1回実施した。レビューでは2時間の議論を通じて、データの解釈と分析の妥当性、特に解釈の客観性と理論的整合性の確保に注力した。
第2に、外部有識者による理論的な妥当性の確認を適宜実施し、実務と理論の両面からの検証を可能とした。この過程では、組織アイデンティティ研究の理論的枠組みとの整合性や、発見事実の一般化可能性について重点的に検討を行った。
3.4 データ収集方法2023年6月から12月にかけて複数の手法を組み合わせたデータ収集を実施した。主たるインタビュー調査では、組織の異なる階層と部門から選出した9名(製造、営業、管理、クリエイティブ各部門を含む)を対象とした。インタビューを重ねる中で理論的飽和に達したため、9名で調査を終了した。
対象者は組織階層別にマネジメント層、マネージャー層、メンバー層から各3名を選出し、以下の3点を基準として選定した。第1に、在籍年数が5年以上であること、第2に、日常的な価値観の実践と理念浸透活動への関与が観察できる立場にあること、第3に、創業家出身者との業務上での接点や新規事業開発への関与度について偏りがないよう配慮したことである。具体的には、創業家出身者との業務上での関わりがある者とない者、新規事業開発の担当者と既存事業の担当者をバランスよく含めた。インタビューは半構造化形式で、1人あたり2時間の対話を行った。
客観的な分析のため、在籍5年以上で直近3年以内に退職した元社員3名への補完的インタビュー調査も実施した。特に、品質管理や改善活動に関する経験、組織の価値観に対する批判的視点を含めて聴取し、組織の実態をより立体的に理解することを試みた。
文書データとしては、1963年から現在に至る理念関連文書、研修資料、経営計画書、社内報を収集した。参与観察では、部門間交流場面(月2回)、理念浸透施策の実施場面(月1回)、日常的な業務実践場面(週1回)を定期的に観察した。
3.5 分析プロセスと質の保障分析は「マイニング」「パターン抽出」「パターン構造化」の3段階で実施した。マイニング段階では、インタビューデータの文字起こしと時系列整理を行い、価値観に関する語りや経験の記述を抽出した。コーディングにあたっては、具体的な経験の記述と、その背後にある価値観の解釈を区別して分析を行った。
パターン抽出段階では、KJ法を用いてクラスタリングを実施した。価値観の変容との関連性、経験の反復性、組織的影響という基準に基づき、各クラスターからパターン候補を抽出した。パターン間の関係性についても初期的なマッピングを行った。K社の各部門から選出された20名の研究協力者による実践的観点からの検証を月1回実施し、分析結果の妥当性を確認した。
パターン構造化段階では、各パターンを主要な要素(Context、Problem、Solution等)で構造化し、文脈依存的な実践知を他者が理解し応用可能な形で記述した。続いて、パターン間の階層関係を整理し、最終的に34のパターンを3つの大分類と12の機能的グループに整理した。
分析の質を確保するため、以下の3つの観点から方策を講じた。第1に、データの信頼性確保のため、インタビュー、文書、参与観察という複数のデータソースを用いたトライアンギュレーションを実施した。第2に、解釈の妥当性確保のため、研究協力者によるメンバー・チェックを実施した。第3に、一般化可能性への配慮として、パターンの適用条件と効果を具体的に示し、組織規模や業種による制約条件を明示することで、知見の適用範囲を明確にした。
本章では、パターン・ランゲージ分析により抽出された知見に基づき、アイデンティティの拡張と理念浸透の相互作用を分析する。まず組織アイデンティティの原点を確認し、次にパターン・ランゲージ分析から得られた結果を示す。そのうえで、理念改定における3つのIW活動の具体的な展開過程を分析する。
4.1 組織アイデンティティの原点K社の組織アイデンティティは理念の歴史的変遷に表れている。創業者の言葉は1963年の社内報で初めて成文化され、2006年に4代目社長によって企業目的として正式に定められた。当初の企業目的は「世の中に役立つ会社になる」というシンプルなものだったが、時代とともに解釈と適用範囲が拡大していった。
2006年の理念制定後、K社は製造業としての心がけを重視した浸透活動を展開した。特に品質管理や改善活動を通じ、「安心・安全」「スピードと精度」という価値観の浸透が図られた。この浸透活動は当初、組織成員の理解を深め、共通の目的に向けた行動を促進する効果をもたらした。製造部門の元管理職は「品質管理や改善活動を通じて、全社一丸となって製品の品質向上に取り組む文化が定着した」と当時を振り返る。
しかし、浸透活動が進むにつれて新たな課題も顕在化してきた。元社員からは「改善活動は品質向上に不可欠だが、時として現場の負担が大きくなりすぎることがあった」という指摘や、「理念と現場の実態のバランスを取ることの難しさ」という課題が示された。さらに、クリエイティブ領域への事業展開が進む中で、製造業としての価値観の強調が新しい取り組みの制約となる場面も見られるようになった。
このような状況に対して、組織成員からは徐々に既存の理念と実践との間のギャップを指摘する声が上がり始めた。若手社員からは創造的な仕事への挑戦や新しい価値の創出が、中堅社員からはグローバルな視点での事業展開が、実際の業務において求められているにもかかわらず、当時の理念ではそれらの活動の正当性が十分に説明できないという課題が指摘された。経営層との日常的な対話の中で、組織成員は「既存の価値観は大切にしながらも、現在の事業活動や目指すべき方向性を理念として明確に示す必要があるのではないか」という問題提起を行っていた。
2022年の理念改定では、このような組織の実態と理念との乖離を解消するため、新たに「グローバルな視点を持つ」「クリエイティブを楽しむ」などのValueが追加され、新たなVisionとMissionが制定された。4代目社長は、「当社の理念改定は、トップダウンで進めたわけではありません。むしろ社員との日々の対話の中で、新しい価値観が自然に形成され、それを理念に反映させる必要性を感じたのです」と述べている。
このプロセスを可能にした要因として、K社の2つの組織的特徴が挙げられる。第1に、既存の価値観が組織アイデンティティの核心を形成している点である。4代目社長は、「当社の理念の根幹には、創業者から受け継いだ『世の中に役立つ会社になる』の精神がある」と述べ、この価値観は近年のSDGsなど新たな文脈においても発展的に解釈されている。第2に、経営層と組織成員の距離の近さを活かした対話的な価値観形成が行われている点である。専務Y氏の「社員の声を大切にし、それを経営に反映させることで、時代に合った企業文化を築いている」という発言は、この特徴を端的に示している。このように、K社の組織アイデンティティの原点は、IW活動の基盤として機能し、時代や環境の変化に応じて再解釈されながらも、組織の判断や行動の拠りどころとなっていた。
4.2 パターン・ランゲージ分析の概要 4.2.1 抽出されたパターンの全体像パターン・ランゲージ分析により抽出された34のパターンを表1に示す。これらのパターンは、組織アイデンティティとの融合(12パターン)、個人アイデンティティの拡張(15パターン)、組織アイデンティティの拡張(7パターン)という3つの活動領域に分類された。なお、組織アイデンティティとの融合のうち『価値観の伝え方の構築』『価値観の共有』は北居・田中(2009)の受動的浸透に、『実践の促進』『実践からの振り返り』は能動的浸透に対応している。この分類は、創発的ボトムアップ型の理念改定における段階的な価値観形成プロセスを反映している。人事部長による「創業者の思いを大切にしながらも、若手の意見をしっかり聞き、それを形にしていく」という発言は、既存の価値観との融合、個人レベルでの価値観の拡張、そして組織レベルでの価値観の拡張という段階的な展開を端的に示している。

これらのパターンがどのように抽出されたのかを、「話しやすい空気感を作る」の分析例を用いて説明する。このパターンは、経営層と組織成員の距離の近さを活かした価値観の交換と浸透を促進する環境づくりの実践を表している。
Context(状況)では、チームのコラボレーション力を高めたいという組織的課題が示された。Problem(問題)として、チーム内での話しにくさが良いシナジーを阻害する点が抽出された。製造部門の管理職Aは「発言したあとに反応がないことや、キツイコメントを受けると誰も最初の一言を発さなくなる」と、対話の阻害要因を指摘している。研究開発部門の統括責任者Eは「いつか自分も同じ目に遭うかもしれないという不安から、誰も発言したがらなくなる」としており、この問題の自己強化的な性質が確認された。
Solution(解決策)として、経営層を含めた組織全体で意見に耳を傾け、発言を後押しすることで風通しの良い話し合いを実現するアプローチが提示された。経営企画部門のマネージャーBによる「偉そうにしないで話しかけてもらいやすいことを心掛けている」という心理的安全性を高める実践は、組織成員間での活発な価値観の交換を促進し、個人の価値観の拡張と組織の価値観の理解深化につながることが確認された。
4.3 理念改定における3つのIW活動の展開 4.3.1 組織アイデンティティとの融合を促進するIW活動組織アイデンティティとの融合は、4つのグループに分類される12のパターンを通じて促進された。以下、各グループにおけるIW活動の具体的な展開を分析する。
第1に、「価値観の伝え方の構築」では、「価値観へのタッチポイント(経営理念と組織成員との間での接点)」として、経営企画部門の部長は「会社案内、HP、カード、社内報などに組織の価値観を記し、社員がいつでも見られるようにしている」と説明する。「余白をデザインして渡す」では、これらの媒体に意図的に解釈の余地を設けることで、受け手の主体的な解釈を促す工夫が見られた。「語ることで伝える」では、エピソードを交えた対話を通じて、より深い理解を促す取り組みが行われた。これらのパターンは、価値観の一方的な伝達ではなく、解釈の余地を残しながら多様な接点を創出する試みとして機能していた。
第2に、「価値観の共有」では、「マネジメント層が発信する」として、製造部門の管理職が「組織の価値観が示す長期的な目標が現場での実践においてどのようにつながるのかを説明する」という実践が見られた。「マネージャーが翻訳する」では、トップマネジメントからの価値観の発信を各現場の文脈に即して翻訳が行われ、製造部門の統括責任者は「上からやんやんいって引っ張っていく時代ではない」と述べている。「フィードバックする場を持つ」では、定期的な対話の機会を設け、価値観の解釈と実践に関する意見交換が促進された。
第3に、「実践の促進」では、「考えるキッカケを渡す」として、人事部門のマネージャーは「採用面接に若手社員を参加させることで、組織の価値観を改めて考える機会を提供している」と説明している。「重要な場に巻き込む」では、クリエイティブ部門の中堅社員が「方針策定への参画を通じて、組織の目指す方向性をより深く理解できた」と述べている。「力量に合った行動の見守り」では、段階的な実践機会の提供が行われていた。
しかし、製造部門の元管理職は「改善活動は品質向上に不可欠だが、時として現場の負担が大きくなりすぎることがあった」と指摘し、「理念と現場の実態のバランスを取ることの難しさ」を語った。また、元社員からは「価値観の共有自体は重要だが、その実践方法には改善の余地があった」との意見も聞かれた。これらの指摘は、理念浸透における実践上の課題を示唆するものである。
第4に、「実践からの振り返り」では、「自身の行動で示す」「やることを支援する」「失敗から得た学び」という取り組みが見られた。特に研究開発部門では、失敗を許容する文化を醸成し、それを学習機会として活用する取り組みが行われた。「失敗は次の挑戦への学びになる」という価値観が共有され、それが個人アイデンティティの拡張を促す基盤としても機能していた。これらの4つのグループにおけるIW活動は相互に関連しながら、組織アイデンティティとの融合を促進していた。次節では、この基盤の上に展開された個人アイデンティティの拡張プロセスを分析する。
4.3.2 個人アイデンティティの拡張を促進するIW活動分析の結果、個人アイデンティティの拡張は2つの経路を通じて促進されることが明らかになった。第1の経路は組織アイデンティティとの融合を起点とするもので、「組織の視点からの価値発見」と「目標設定への実践からの価値発見」というグループに表れている。この経路では、4.3.1節で述べた組織アイデンティティとの融合IW活動を通じて共有・解釈された組織の価値観が個人の価値観形成の基盤となる。第2の経路は個人の自律的な価値観形成を起点とするもので、「他者の価値観からの価値発見」「環境変化への反応からの価値発見」「個人の学習からの価値発見」というグループとして観察された。以下、各経路における実践とその効果を検討する。
第1に、「組織の視点からの価値発見」では、「個人と組織の視点を持つ」として、デザイン部門の責任者は「数年前から管理職への移行を意識的に進めており、最近では『管理の仕事もやってかないとダメかな』と考えるメンバーも出てきている」と説明している。「前後の業務を理解する」では、工程間の連携を意識した実践が観察され、「他者の行動を解釈する」では、組織の価値観との関連で他者の行動を理解する取り組みが見られた。これらはいずれも、4.3.1節で述べた組織アイデンティティとの融合IW活動を通じて獲得した組織の視点が個人の価値観形成に影響を与えた例である。
第2に、「目標設定への実践からの価値発見」では、「自らハードルを上げる」として、研究開発部門のプロジェクトリーダーは「自分で設定した目標に挑戦することで、新しい可能性と限界を知ることができる」と述べており、「自分と組織の未来像を考える」「楽しんで巻きこむ」といったパターンも観察された。これらのパターンも、組織の価値観を踏まえた上での個人的な目標設定と挑戦という形で、組織アイデンティティとの融合を起点としている。
第3に、「他者の価値観からの価値発見」では、個人間の価値関係性が自律的な価値観形成を促していた。「話しやすい空気感を作る」として営業部門のチームリーダーは「偉そうにしないで話しかけてもらいやすいことを心掛ける」と述べ、この実践が価値観の交換と内面化を促していた。「おはようから始まる関係」では製造部門の現場監督者による関係構築の実践が見られた。これらは組織の公式的な価値観伝達とは異なる経路で、個人が自律的に価値観を形成する基盤となっていた。クリエイティブ部門の若手社員は「先輩との何気ない会話から『創造性』の意味を自分なりに考えるようになった」と述べ、個人間の価値関係性が価値観形成を促していた。
第4に、「環境変化への反応からの価値発見」では、「環境変化への応答」として、システム開発部門の部長は「危機感や環境が自分たちを成長させる。自分たちを見直すチャンスとなる」と述べ、「自分自身のアップデート」「個人の意識をあげる」といったパターンが確認された。
第5に、「個人の学習からの価値発見」では、「新たな知識を増やす」として、人材開発部門の統括マネージャーは「仕事以外のことで何か1つモノでもサービスでも作ってきなさい」という課題を出しており、「他者の行動からまねぶ」としてクリエイティブ部門のベテラン社員は「発表の上手な人がいたら、徹底的にパクって進化させてほしい」と助言していた。「伝えて深める」では、学びの共有を通じた価値観の深化が観察された。
これらの2つの経路は独立して存在するのではなく、相互に補完しながら、個人アイデンティティの拡張を促進していた。特に、組織アイデンティティとの融合を起点とする第1の経路を通じて組織の価値観の理解と内面化が進むことで、自律的な個人の価値観形成による第2の経路における探索と創造が方向づけられていた。
4.3.3 組織アイデンティティの拡張を促進するIW活動組織アイデンティティの拡張は、3つのグループに分類される7つのパターンを通じて展開された。この過程では、個人アイデンティティの拡張から創発的に形成された価値観が、「個人アイデンティティからの取り込み」を経て、「原点と結びつけた組織アイデンティティの拡張」へと発展し、最終的に「組織アイデンティティ拡張から理念改定へ」とつながるボトムアップ型のプロセスが観察された。
第1に、「個人アイデンティティからの取り込み」では、個人アイデンティティの拡張から生み出された創発的な価値観が組織に取り込まれていくプロセスが観察された。「意図を汲む」として、経営企画室のマネージャーは「SDGsやDX関連など社会や顧客から求められ、会社の中でまだ存在していないけど、業務を遂行する上で必要なものは上司に報告するようにしている」と述べ、「会社の文化ですぐには受け入れられないこともあるが、同様の報告がいくつか上がると重い腰が徐々にではあるがあがっている」と補足している。ここで注目すべきは、個人の環境変化への反応や学習から獲得された新たな価値観(SDGsやDX関連の知識や考え方)が、組織への報告という形で共有され、複数の個人からの類似の報告が組織変化の契機となっている点である。「本質を問う」「内省から学ぶ」では、組織が個人の新たな価値観を丁寧に受容しながら、既存の価値観との接点を模索していった。この段階は、個人アイデンティティの拡張から生まれた価値観の創発的形成が、組織アイデンティティの拡張へと転換される重要な橋渡しとして機能していた。
第2に、「原点と結びつけた組織アイデンティティの拡張」では、「過去と未来と現在を語る」として、総務部門の部長による「過去を振り返り、今あるのは過去の先輩たちが築き上げてくれた土台にあるということを考える場を設けている」という取り組みは、創業理念を現代の文脈で再解釈し、新たな実践につなげる場として機能していた。また、製造部門の熟練技術者による「私たちは改善から教えてもらっているのかもしれない」という発言は、日々の改善活動を通じて組織の基本的な価値観が実践的に継承され、新たな文脈で再解釈されていく過程を示している。
第3に、「組織アイデンティティの拡張から理念改定へ」では、経営企画室長は「理念改定は、日々の業務の中で生まれた新しい価値観を、組織として認知し、明文化する作業です」と説明している。2022年の理念改定で追加された「グローバルな視点を持つ」「クリエイティブを楽しむ」といった新たな価値観は、改定後に組織アイデンティティとの融合IW活動に新たな内容を提供していた。経営企画部門の課長は「理念改定後、特に『クリエイティブを楽しむ』をどう実践するかの対話の機会を意図的に増やした」と述べ、製造部門のマネージャーも「『グローバルな視点』の現場での解釈と実践について定期的に話し合うようになった」と説明している。このように、更新された価値観は再び組織アイデンティティとの融合IW活動を活性化する循環的プロセスを形成していた。
このプロセスは、経理部門出身の現生産統括部長の事例に象徴的に表れている。「経理の知識を活かしながら生産技術を学び、海外での設備導入を主導した」という経験は、個人の専門性を超えた価値創造が組織の新たな強みとして定着していく過程を示している。現在この設備がK社の生産体制の中核を担っているという事実は、個人の主体的な取り組みが組織の価値観として統合され、定着していく具体例となっている。
これらの3つのIW活動は循環的に発展していた。組織アイデンティティとの融合IWは個人アイデンティティの拡張IWの基盤となり、個人アイデンティティの拡張IWは組織アイデンティティの拡張IWを促進し、更新された価値観は再び組織アイデンティティとの融合IWを豊かにするという好循環が形成されていた。この循環的発展において、経営層と組織成員の距離の近さが重要な促進要因として機能し、理念の永続性と適応性の両立を可能にしていた。
本章では、K社の事例分析から得られた知見を基に、理念浸透と改定のメカニズムについて理論的考察を行う。パターン・ランゲージ分析からは、組織アイデンティティの原点を基盤とした3つのIW活動が抽出された。4.1節で述べたように、K社の組織アイデンティティの原点は「世の中に役立つ会社になる」という創業者の理念に根ざしており、この原点がIW活動全体の基盤として機能していた。組織アイデンティティの原点は特に組織アイデンティティとの融合IW活動を直接促進し、その基盤となることで、IW活動全体の循環的発展を支えていた。これらの関係性は、Albert and Whetten(1985)の永続性とGioia et al.(2000)の適応性という2つの理論的視点を統合する形で理解できる。
5.1 3つのIW活動の特徴と相互作用本研究で観察された創発的ボトムアップ型の理念改定プロセスは、トップダウン型や計画的参加型とは異なり、日常的実践からの価値観形成、既存価値観との対話、経営層と組織成員の近接性を特徴とする。図1に示すように、3つのIW活動の基盤として組織アイデンティティの原点が重要な役割を果たしている。K社の事例では、「世の中に役立つ会社になる」という創業者の理念が組織アイデンティティの原点として、まず組織アイデンティティとの融合IW活動を直接促進していた。

出所:事例分析をもとに筆者作成
第1に、組織アイデンティティとの融合IWは、「価値観の伝え方の構築」、「価値観の共有」、「実践の促進」、「実践からの振り返り」という4つの活動群を通じて、創業者の理念を基盤とした価値観を組織成員と共有・融合させる機能を果たしていた。例えば、複数の「タッチポイント」の設置や、マネジメント層からの発信とマネージャーによる翻訳の組み合わせにより、創業者の価値観を核としながらも現代の事業環境に適合した形で価値観の共有が実現されていた。一方で、理念の実践面では現場の負担との適切なバランスを取ることの難しさも示唆された。
第2に、個人アイデンティティの拡張IWには2つの経路が存在することが明らかになった。1つは組織アイデンティティとの融合を起点とする経路であり、「組織の視点からの価値発見」と「目標設定への実践からの価値発見」という2つの活動グループを通じて展開される。この経路では、組織アイデンティティとの融合IW活動によって共有・解釈された組織の価値観が個人の価値観形成の基盤となり、共有された理念の主体的な解釈と実践として発展していく。もう1つは、自律的な個人の価値観形成による経路であり、「他者の価値観からの価値発見」「環境変化への反応からの価値発見」「個人の学習からの価値発見」として観察された。この経路は社内外の関係者との相互作用、環境変化への対応、多様な経験を通じた学習という個人の主体的な実践を基盤とする価値観形成プロセスとして特徴づけられる。
第3に、組織アイデンティティの拡張IWは、「個人アイデンティティからの取り込み」「原点と結びつけた組織アイデンティティの拡張」「組織アイデンティティの拡張から理念改定へ」と段階的に展開された。トップダウン型が経営層の意図を直接反映するのに対し、本事例では個人の新たな価値観を丁寧に受容しながら、既存価値観との接点を模索し、最終的に理念として制度化していった。このプロセスでは、過去の振り返りが創業理念の現代的解釈を促す重要な機会として機能し、組織の基本的な価値観が実践的に継承されながら、新たな文脈で再解釈されていった。
特に注目すべきは、個人アイデンティティの拡張IWから組織アイデンティティの拡張IWへの影響関係である。図1に示すように、個人レベルでの価値観の創発的形成は、組織レベルでの価値観の統合と拡張を促進する重要な契機となっていた。個人アイデンティティの拡張を促進するIW活動を通じて形成された価値観(SDGsやDX関連など)は、「個人アイデンティティからの取り込み」というパターンを通じて組織レベルに共有され、「原点と結びつけた組織アイデンティティの拡張」を経て、最終的に2022年の理念改定における「グローバルな視点を持つ」「クリエイティブを楽しむ」といった新たな価値観として制度化されていった。このように、個人レベルでの価値観の創発から組織レベルでの価値観の制度化に至るボトムアップ型のプロセスが、K社の理念改定の特徴的なメカニズムとなっていた。
これらの3つのIW活動は相互に関連しながら循環的に発展していた。組織アイデンティティとの融合IWは個人アイデンティティの拡張IWの基盤を提供し、特に「組織の視点からの価値発見」と「目標設定への実践からの価値発見」を通じて個人の価値観形成に影響を与えていた。一方、個人アイデンティティの拡張IWからの創発的な価値観は組織アイデンティティの拡張IWを促進し、さらに組織アイデンティティの拡張によって更新された価値観は、再び組織アイデンティティとの融合IWの内容を豊かにする好循環が形成されていた。この循環的発展において、経営層と組織成員の距離の近さという特徴と、組織アイデンティティの原点の存在が重要な役割を果たし、IW活動の方向性を保ちながら相互補完的な関係性を実現し、理念の永続性と適応性の両立を可能にしていた。
5.2 理論的示唆本研究の知見は、理念浸透と改定に関する既存研究に対して、2章で導出した研究課題に対応する以下の3点の理論的示唆を提供する。
第1に、本研究は創発的ボトムアップ型の理念改定という新たなアプローチの存在を示している。従来の研究で示されてきたトップダウン型(王, 2023)や計画的参加型の改定とは異なり、理念浸透過程から自然に展開される改定プロセスの存在が確認された。具体的には、組織成員が日常的な実践の中で既存の理念との乖離を認識し、その課題を経営層との対話を通じて共有していく過程で、新たな価値観が形成され、それが最終的に理念として制度化されていくというプロセスである。特に、経営層と組織成員の距離の近さという同族系企業の特徴が、この創発的なプロセスを促進する重要な要因として機能している。
第2に、個人アイデンティティの拡張における2つの経路の発見は、理念浸透研究における受動的・能動的浸透の相互作用についての新たな理解を提供する。
第1の経路は、組織アイデンティティとの融合を起点とするものであり、「組織の視点からの価値発見」と「目標設定への実践からの価値発見」というグループを通じて展開される。この経路は、北居・田中(2009)が指摘する受動的浸透のプロセスと対応するが、単なる価値観の受容ではなく、組織成員による主体的な解釈と実践を含む点で特徴的である。
第2の経路は、組織アイデンティティとは独立した自律的な価値観形成であり、「他者の価値観からの価値発見」「環境変化への反応からの価値発見」「個人の学習からの価値発見」というグループを通じて展開される。特に、「他者の価値観からの価値発見」においては、個人間の価値関係性が自律的な価値観形成の重要な触媒となっていた。この価値関係性は、組織の公式的なIW活動とは別の経路で、個人が主体的に価値観を形成し、アイデンティティを拡張する基盤を提供していた。これは、能動的浸透(北居・田中, 2009)の具体的なメカニズムを示すものであり、価値観と実践の関連づけ(松岡, 1997)や試行錯誤的な自己像の形成(Ibarra, 1999)が、日常的な実践を通じてどのように実現されるのかを明らかにしている。
これら2つの経路は独立して存在するのではなく、相互に影響を与えながら発展していく。例えば、日常的な対話を通じた価値観の共有は、組織の価値観を伝達する機会であると同時に、組織成員の新たな価値観を発見する場としても機能する。この相互作用的な展開は、同族系企業における経営層と組織成員の距離の近さによって促進され、理念の発展的解釈と改定を可能にする重要な要因となっている。
第3に、理念の永続性と適応性の両立メカニズムに新たな理解を提供している。本研究は、Gioia et al.(2000)が指摘した組織アイデンティティの適応性の実現メカニズムを具体的に示した。組織アイデンティティの原点を不変の核としながら新たな価値観を段階的に取り込んでいく過程は、Ravasi and Phillips(2011)が提起した戦略的変化とアイデンティティの整合性という課題への解答を提供する。「アイデンティティの拡張」は、抜本的な再構成ではなく、組織の本質的価値を保持しながら解釈範囲を徐々に拡大する漸進的プロセスとして特徴づけられる。特に、組織アイデンティティの拡張を通じて更新された価値観が再び組織アイデンティティとの融合IW活動に取り込まれる循環的メカニズムが、理念の永続性と適応性の両立を可能にしていた。
本研究は、アイデンティティ・ワークを通じた理念浸透と改定のメカニズムについて、パターン・ランゲージ分析を用いて解明を試みた。分析の結果、以下の3点の理論的貢献が得られた。
第1に、理念改定の新たなアプローチとして、創発的ボトムアップ型の存在を明らかにした。組織成員が日常的な実践の中で既存の理念との乖離を認識し、その課題を経営層との対話を通じて共有していく過程で、新たな価値観が形成され、理念として制度化されていくプロセスを示した。
第2に、理念浸透と改定のプロセスが、3つのIW活動の循環的な相互作用によって展開されることを示した。特に、個人アイデンティティの拡張における2つの経路の存在を明らかにし、理念浸透研究における受動的・能動的浸透の相互補完性についての新たな理解を提供した。
第3に、理念の永続性と適応性の両立メカニズムを具体的に示した。経営層と組織成員の距離の近さという組織特性が、この両立を可能にする重要な要因として機能することを明らかにした。
これらの発見は、以下の実践的含意を持つ。第1に、組織特性に応じた理念改定アプローチの選択の重要性である。創発的ボトムアップ型の改定は、経営層と組織成員の距離が近い組織において有効であり、組織規模や形態に関わらず適用可能である。第2に、理念浸透活動を組織成員の主体的な価値観形成の機会として捉え直す有効性である。第3に、段階的な価値観統合によって組織の一貫性を保ちながら環境適応を実現する重要性である。第4に、経営層が価値観の押し付けではなく、組織成員との対話を通じた価値観の共創者として機能する役割の重要性である。
本研究は同族系企業を研究文脈としたが、発見された知見はより広範に適用可能である。創発的ボトムアップ型の理念改定プロセスの鍵となる「経営層と組織成員の距離の近さ」は、組織規模や所有形態に関わらず、対話的な組織文化や水平的なコミュニケーション構造を持つ組織に共通して観察される可能性がある。ただし、組織規模の拡大に伴う複雑化が創発的プロセスに与える影響は、今後の研究課題となる。
本研究の限界として、以下が挙げられる。第1に、単一事例研究による一般化可能性の制約である。第2に、2つの経路の機能条件や相互関係の検討の不足である。第3に、循環的発展プロセスの長期的効果検証の限界である。将来の研究課題として、複数組織での比較事例研究、混合研究法による検証、理念の動態的解釈・更新プロセスの長期的観察が期待される。