産学協同は,戦後日本の経済復興と学制改革の問題点を改善すべく,米国の先進的な教育制度として日本へと紹介された.しかし,この特色ある教育システムは一般には普及せず,その一方で,産業界はこの産学協同を技術者不足や技術革新という差し迫った問題に対して都合よく利用した.この産業界の理解は大学経営や政府の利害とも合致していた.これに対して,産官による産学協同の推進は戦前の国家的「独占資本主義」の復活であり,学問の自由や主体性の危機ともみなされた.この批判は1960年代後半の大学紛争の進展とともに高まり,産学協同をタブー視する雰囲気が全国的に広がっていった.批判側はイデオロギー的に,推進側は都合よく恣意的に,この産学協同をスローガン化した.両者の議論ともにその利害関係は抽象的に一般化され,科学技術論の研究者もこの一般化を歴史的な観点から促した.こうして具体的な分析が阻害されることになり,推進と批判の対立は放置され続けたと考えられる.