歴史を見ると,現実の進行と制度の成立は,必ずしも時期が一致しない。例えば,著者の権利という意味での著作権と職業作家の誕生の時期には,1世紀程度のズレがある。
1710年,世界初のコピーライト法である「学習奨励のための法律」(通称,アン法)が成立した。この法律は,1695年に廃止された印刷法の後を埋めるべく,ロンドン印刷・出版業組合(ステーショナーズ・カンパニー)が運動した結果であった1),2)。
印刷法は,王政復古時代の1662年に成立した。この法律は,印刷業者の数の制限や,印刷業を営める地域・場所の限定,登録簿への登録,登録前の検閲を成文法として定めた。この法律は3年ごとの時限立法であって,1695年には更新が拒否され,その後復活することはなかった3),4)。
当時,書籍商と出版社は未分化で,大書籍商兼出版社は,書籍・印刷物の出版販売よりも,書籍・印刷物の版権(コピーライト)の取引が収益の重要な柱であった。書籍商・出版社内部で分割して版権を所有することもあった。この版権は,前出のロンドン印刷・出版業組合に所属する業者だけが取引できた。この業界内取引はせりによって行われた。だから,仲間内での版権独占を可能にする印刷法は,彼らの利害に適っていた5)。
印刷法に代わって制定されたアン法には著者への言及はなく,コピーライトは著作権ではなく,版権の意味であった。
17世紀から18世紀にかけて,フランスやイギリスでは「文士」と呼ばれる新しいタイプの知識人が勃興しつつあった。この時代は,活版印刷術の普及とともに,新しい文学ジャンルである小説が勃興しつつあった時期であった。小説は散文の発達とともに生まれた文学ジャンルであって,散文の発達は,正字法や標準的国語の普及に影響を与えた活版印刷術と強い関係があるとされている6)。
歴史家アラン・ヴィアラによれば,文藝は,古くからクリエンテリズモとメセナによって支えられてきたとされる。クリエンテリズモは,「富と権力を持つ人物のまわりに個人やグループが集まって仕え,その見返りとしてさまざまな特恵を手にする」食客(Clientéle)に由来する。修史官や執事などに就任した文学者は,パトロンに奉仕する義務を負ったが,かなりの金額の俸給を手にすることができた。自分自身の名前で作品を発表するよりも,パトロンの政敵を攻撃するパンフレットを書くほうが重要な場合もあったし,作品はパトロンをほめたたえ,その政敵を攻撃するものでなければならなかった。パトロンを乗り換えることもあったので,食客たちの主張は一貫性を持たないことがしばしばだった7)。
一方,メセナは,権力者や政府が与える報奨金であって,優れた文学者を選抜する制度となっていった。報奨金は一時金の形もあったし,年金という形で与えられることもあった。文学者にとっては,報奨金を獲得することは金銭的保証を得ることであったが,報奨金の公的な性格によって得られる,公衆に対する権威のほうが重要だった。メセナによる報奨金(年金)は平均的な教授職や修史官の収入とほぼ等しかったが,文学者としての生活形式を整えるには不足だったとされる。そのため,文学者としての世渡りとしては,メセナとクリエンテリズモを組み合わせることが必要であった7)。
クリエンテリズモやメセナに与る一部の実力と幸運を備えた文士たちがいた一方で,貧しく名誉も奪われた悲惨な生活を送った無数の文士がいた。彼らは売文業者と呼ぶべき存在(イギリスでは“hack writers”と呼ばれた)であって,出版者や出資者の要請に応じて,文章をものした。政敵を攻撃するパンフレットであったり,下世話な好奇心を満たすポルノグラフィーであったりといった文章を書く人々が多数あふれていた。彼らは高等教育を受けていたにもかかわらず,社会的浮上ができない人々であった。
イギリスでは,売文業者は「グラブ・ストリート(Grub Street)の住人」と呼ばれることがあるが,この通りは,現在のムーアフィールズ近くに19世紀まで実在したものである。この通りに売文業者が集まるようになったのは,17世紀のこととされる。イギリスでは,庇護者が見つからない文士はグラブ・ストリートの住人に身を落とすこととなった8)。
フランスでも,過激な政治文書やポルノグラフィーの制作に携わった業者や文士の群れがいた。歴史家は彼らを「どぶ川のルソー」と呼ぶことがある。検閲をパスしないこうしたアンシャン・レジーム期の地下出版が,フランス革命の精神的な雰囲気を準備したとする見解もある9)。
17世紀から18世紀にかけて,著作者と印刷・出版業者との契約においては,印刷した書物の一部を無料で著作者に引き渡すだけで,金銭の支払いが行われないケースもあった。これは,著作者が,書物を美麗に製本して,庇護者としてふるまってくれる有力者に対して献呈するためであった。この献呈に応えて,有力者は作家に対して,手当や報酬を与えた10)。クリエンテリズモやメセナが作家ビジネスの支えだったからである。また,教授職や医師などの職業を持った著作者は,報酬よりも,有力者の知遇や好意を得るために著作を献呈した。
クリエンテリズモやメセナを含むパトロン制は,18世紀には下火に向かう。イギリスにおいては,清水一嘉によれば,パトロン制度は18世紀初頭をピークとして,1750年代には,パトロン制度(ペイトロン)はほとんど消滅していたとされる8)。
清水によれば,英語辞典編纂やシェイクスピアの研究で知られるサミュエル・ジョンソン(1709-1784)は,パトロン制の盛期と衰退期の両方を見ることになった。政党のために書かせる政治的パトロンがより直接的な役人や選挙区の懐柔対策にとって代わられてまず衰退し,その後社交界の有力者によるパトロンが,文学的審美眼がない権力者までも見栄のためにパトロン顔をし始めたことで,嘲笑の対象となり,やはり衰退していった8)。
パトロン制度の衰退の背景には,経済成長とともに出現した新しい読書公衆の登場とその拡大がある。動きは前世紀に始まった。
17世紀には定期刊行物が生まれ,教養文化を広めることで,読書公衆の成立を促した。初期の新聞は文士が書き,やがてニュースや政治評論などが文学から分離していった。17世紀以降の経済の拡大とともに,貴族や豊かなブルジョワの間で読書習慣が広がり,書物・印刷物の消費量が増大する。これらの人々をヴィアラは「拡大した公衆」と呼ぶ。それにつれて,ラテン語による一部の知的エリートや権力者向けの書物の生産量が相対的に下がる一方で,ヨーロッパ諸語による書物の生産が増加する11),12)。
「拡大した公衆」の勃興とともに,作家はより自立的な活動の機会を得ることができた。拡大した公衆に作品を販売することで,作家は庇護者から経済的に自立し,文学が人文学から独立したジャンルとなった。拡大した公衆に訴求する文士たちは,権力者ではなく社交界(サロン)での歓心を競った。そして,権力者に仕える文学者とサロンの寵児が同じアカデミーで席を並べることとなった13)。
読者公衆の拡大によって,17世紀末には著作の販売によってかなりの収入を得る著作者も登場した。アレクサンダー・ポープの『オデュッセイ』(1725-26年)の翻訳は4,500ポンドの収入をもたらし,哲学者デヴィッド・ヒュームの『英国史』(1754-61年)は3,000ポンドの収入をもたらした。これ以外にも高額な報酬を手に入れた著名な著者は多い8)。
18世紀には,クリエンテリズモで得られる高額の報酬を凌駕する著作販売収入を手にする著作者が登場し,作家ビジネスからパトロン制は退場することとなった。
ところが,版権ではなく,著作者の権利である著作権という意味でのコピーライトを保護する法律の成立は,パトロン制の退場の時期よりもかなり後となる。
まず,フランスやアメリカでは,18世紀末に著作者の権利である著作権法が誕生した。フランスでは,1791年,1793年に著作者の権利を保護する立法が行われた。アメリカでは,1790年に「指定された期間地図および海図,書籍の複製の著作者および版権所有者(proprietors)に対してそうした複製を保障することによる学習奨励法」が制定された14)。
一方,イギリスでは,さらに遅れて,著作者の権利保護を目的とする著作権法は,1842年に成立した。この法律を成立させるには,カーライルやディケンズなど,当時の流行作家の運動が重要であったとされる15)。
著作権法が成立する以前,18世紀においては,著作権を含む原稿の出版業者への販売や予約購読出版が,パトロン制を離れた作者の収入源だった。一方で,18世紀末には,アダム・スミスのように,原稿の買い取りと併せて,利潤率に応じて配当を受け取るという印税方式の契約に成功した著者もいる8)。
ロマン派の詩人であるワーズワスやコールリッジ,18世紀イギリスを代表する小説家のジェーン・オースティンなどは,著作の販売による経済的成功を得られなかった人々である。ワーズワスは晩年政府からの報奨金を受け取り,コールリッジは友人知人の助力に頼って生活した。オースティンの著作の成功は,主に死後のことである8)。
このように,著作権法が成立したことによって,職業作家が成立したという因果関係があるわけでもないし,パトロン制の衰退を「職業作家の主流化」と呼ぶならば,職業作家の主流化と著作権法の制定までの間には,フランス・アメリカでは数十年,イギリスでは約100年のタイムラグがあった。
このような歴史的エピソードは,制度は現実を追いかけ,それになかなか追いつかない事実を示しているように思われる。