桃中軒雲右衛門。これは,「とうちゅうけんくもえもん」と読む。著作権法や民法(不法行為法)の教科書で,法律の門外漢である筆者がたびたび見かけて気になった名前だ。
桃中軒雲右衛門は,明治時代から大正初年にかけての10年間,一世を風靡(ふうび)した浪曲師である。桃中軒雲右衛門事件とは,明治45年(1912年)三光堂が発売した雲右衛門のレコードの複製盤が,その直後日本蓄音器商会から発売され,吹き込まれた浪花節の著作権登録者であるドイツ人リチャード・ヴェルダーマン(Richard Werdermann注1))が著作権者刑事・民事告訴した裁判(とくに,「附帯私訴」注2)とされた民事裁判)を指す。
明治44年(1911年)12月,雲右衛門は,三光堂の録音室で平円盤に「赤垣源蔵(徳利の別れ)」「大石生立(御薬献上)」「村上喜剣」「正宗孝子伝」を吹き込んだ。それぞれの演目はS P両面に吹き込まれ,1枚3円80銭で発売された。明治45年(1912年)2月28日,雲右衛門は著作権を登録するとともに,ヴェルダーマンに著作権を譲渡した1)。
この裁判の重要な論点は2つある。1つは,浪曲は著作権法に定める著作物に該当するかどうか。もう1つの論点は,浪曲が著作物ではないとしたら,浪曲を記録したレコードを無許諾で複製した場合,著作権侵害になるかどうか。メディア学者の増田によれば,この当時音楽著作権の概念は現実の音楽実践と概念的齟齬(そご)をきたしており,桃中軒雲衛門事件はその典型的例であったとされる2)。
第一審(東京地裁大正元年11月11日),第二審(東京控訴院大正2年12月9日)は,雲右衛門の吹き込んだ浪花節は音楽の演述に当たり,同人独特の技能によるものであるから創作性があるとし,著作物であると認めた。そして,このような音楽的演述を機械的に複製すれば,著作権侵害になるとした1),3),4)。
しかしながら,第一審判決には,ドイツで法学を学び,「ドクトル・イューリス」を名乗る弁理士荒木虎太郎が,「法律新聞」(837号,大正2年1月20日)注3)で判決の「研究調査の粗漏(そろう)」を指摘した。つまり,雲右衛門の浪花節は楽譜をつくり音楽的著作をしたわけでもなく,ほかの浪花節と比較して独創性があるわけでもない。また,「平円盤」(レコード)は音波を記録するだけであるから,(旧)著作権法の保護の対象となる楽譜には当たらないとした1),3),4)。
荒木の主張を理解するため,大正元年(1912年)当時の著作権法を見る。当時の同法第1条は,次のとおりである(現代的表記に改めた)。
第1条 文芸演述図画建築彫刻模型写真その他文芸学術もしくは美術の範囲に属する著作物の著作者はその著作物を複製するの権利を専有す文芸学術の著作物の著作権は翻訳権を包含し各種の脚本および楽譜の著作権は興行権を包含す
第1条には,「音楽の著作物」が挙げられていない。「美術」の語に「音楽」が含まれるかどうかは常に議論となった(荒木も音楽が美術であるかどうかという論点を指摘している)。ただし,「楽譜の著作権」が興行権を含むことから,音楽の楽譜については著作権があるものと考えられていた。
荒木は,一審判決について「裁判官が軽率にも…著作権侵害なる事実を認めた裁判を為したのは実に遺憾」と論評する(「法律新聞」第838号,大正2年1月25日)。その後,この論評は新聞記者がまとめたもので「不穏の語」であったと反省しつつ,音楽の著作権を明文定義するドイツ法を引き,平円盤の無許諾複製は権利侵害に当たらないとの論陣を張った(「法律新聞」842号,大正2年2月15日)。さらに,著作物は「思想の表現」であり,著作権は「審美的考慮あるを要す」として,浪花節は寝言や狂人の談話と同じで,「審美的思想より生じる精神的産出物にあらざる」から,著作物ではなく,著作権の対象ではないと主張する(「法律新聞」第84号,大正2年2月28日)。いくら技巧があっても,思想がなければ著作物ではないという主張を,さらに荒木は繰り返している(「法律新聞」854号,大正2年4月15日)1)。
この裁判は最終的に大審院で争われ,大正3年(1914年)7月4日「原院公私訴の判決は共に之れを破毀(はき)す」との判決を得た。この判決の要旨は,音楽は美術の著作物に属するが,雲右衛門の浪花節の語りは著作物ではないとし,著作物ではない語りを記録した平円盤を複製しても偽作(著作権侵害)に当たらないというものであった。参考文献1)に引かれている要旨によれば,「本来著作権法で複製権のある演述とは,その演述の趣意内容を指すものであり,演述の音声巧拙,声調等演述ぶりの態様外形をいうものではない」。しかるに,雲右衛門の音楽的語りは,古人の事蹟(事実)をのべた文句に「その創意に係る音声曲節を配し,独特の声調によって演述したもの」にすぎない。したがって,「原判決が演述の態様である調子声調に著作権があるものとして著作権の侵害としたのは法律を誤解した不法判決である」。そして,問題の浪曲が雲右衛門が作曲作譜したものであるならば,同じ曲譜が演奏できるような形式の作譜でなければならない。記号として固定されている必要がある5)。つまり,著作権法による保護を受ける著作物であるには,独創的思想をなんらかのメディアに記号として定着させる必要がある。
ところが,雲右衛門の浪曲は独創性があるのはその演述に当たっての表現の技巧にすぎないので,創作に当たらず,記号として定着されて常に同じ曲譜が演奏できる形式ではなく,即興的に演じられたものにすぎないから,著作権によって保護される音楽的作品ではない。すなわち,三光堂が発売していた平円盤は,雲右衛門が創作した著作物を録音したものではなく,著作権の対象ではない注4)。多大な投資によって作成された平円盤を複写製作することは正義の観念に反するものの,権利侵害はないので不法行為には当たらない6)。このように,大審院は判断した。
能見によれば,当時競争法的な法思想は日本国内では未発達で,むしろこの事件を機に研究が進んだ。また,当時の刑事訴訟法に規定された「附帯私訴」は,同じ事件について刑事・民事の告訴を行って,原告が検察による弁論を利用できることに利便性があったものの,刑事裁判の結果に民事裁判の判断がひきずられる傾向があったとされる4)。つまり,刑事裁判においては,罪刑法定主義の観点から厳密に法文を解釈する必要があって,正義の感覚に訴えて,不法行為を認定することは難しかったように思われる。
この判決は同種の事件の判断にも影響を与え,複写盤は合法であるとの判決がおりた。「蓄音器世界」を主宰する横田昇一は,複写盤問題がレコード業界に暗い影を落とすと考え,法学者や政治家に働きかけて,著作権法改正を期した7)。
まず,自ら『蓄音器世界』誌上で判決を批判する論陣を張るとともに,法学者たちに判決の批判を書かせた。花井卓蔵に「蓄音器の「レコード」に関する法律上の意見」を書かせ,立法的解決を求めさせた。また,鳩山秀夫にも見解を求めた。鳩山は不正競業法の思想から判決を批判した4),8),9)。
さらに,横田は代議士の鳩山一郎にも働きかけ,大正9年(1920年)鳩山は著作権法改正の法律案を帝国議会に提出した。この改正案は,(1)「演奏歌唱」を著作物の例に加え,(2)蓄音器など「音を機械的に複製するの用に供する機器に」音を「写調」する者を著作者とみなし保護すること,(3)蓄音器などに他人の著作物を「写調」する者を偽作者とみなすことを主張した10),11)。
結局,議会での議論で,上記の(2)は削除され,(1)と(3)のみが取り入れられ,大正9年8月19日付で,改正著作権法が法律第60号として公布された。
このようにして,著作隣接権概念がない中で,現在ならば実演と見なされる「演奏歌唱」が著作物の中に含まれるという形で,旧法においては音楽の著作物の保護が行われるようになったのである。増田が主張するように,この事件に利害調整のために無理に著作権概念が移植された経緯と,この経緯を反映する著作権概念の混乱を見ることは容易であろう2)。
ここで,浪曲と桃中軒雲右衛門に戻ろう。浪曲史家の正岡容(いるる)の手になる伝記によれば,桃中軒雲右衛門は極貧の中で,旅回りの祭文語りを父として生まれた。本名は岡本峰吉。幼い頃の芸名を小繁といい,上京後浪曲師の三河屋梅車の弟子となるが,師匠の妻の三味線弾きのお浜と恋愛関係になり,西へと出奔する。この旅路の途中,沼津で,当地の弁当屋「桃中軒」と,懇意にしていた相撲取りの天津風雲右衛門から,桃中軒雲右衛門に改名した。明治35年(1902年)には大陸浪人の宮崎滔天(とうてん)と知己となり,滔天を「桃中軒牛右衛門」として弟子とした。滔天のすすめで九州へと行き,当時の右翼の大物で大アジア主義者の頭山満(とうやまみつる)の庇護を受け,この地で大成功を収める。そして,東京へと戻り,総髪を振り乱しながら悲憤慷慨(こうがい)する芸風と美声,独特の声調で人気を得た。10年間の活躍後,妻と同じ肺病で亡くなった――とされる12)。雲右衛門の肖像と簡単な伝記はインターネットでも見られる13)。また,YouTubeで,哀切な調子の彼の浪曲も耳にできる。
正岡によれば,浪曲は明治時代後期以降寄席芸となるものの,江戸時代から文人や武士の娯楽として確立していた落語や講談とは違って,最下層の庶民階級の楽しむ大道芸で,識者の顰蹙(ひんしゅく)を買い,知識人や才人を自認する者たちから嫌われていたとされる14)。
その意味では,雲右衛門がたいへんな人気で,当時の国民意識形成にも大きな影響があったという後世の評価はあったとしても15),上記の雲右衛門事件の当時,裁判に関わる者,裁判を論評する者にとっては,浪曲は卑俗で芸術とは言えないようなものだったに違いない。
そもそも,大道芸の記録・収集に努めた俳優の小沢昭一が,浪花節は「今から考えると一種のシンガーソングライターがやる仕事」とコメントするように16),浪曲師は一定の筋のもとで自分で歌詞やせりふ回しを創作し,独特の節を自らつけて歌うものであった。したがって,実のところ浪曲は,現代の目から見れば,十分創作性要件を満たすことから,著作物であるし,雲右衛門は著作者であったと評価できる。
浪曲が著作物であるかどうかという問題意識は,浪曲がいったいどのような芸術であるかというその芸術性の判断にも影響を受けていた可能性がある。私たちは,インターネットなどの新しいメディアで現在生まれつつある新しい表現をどのように位置づけることになるだろうか。