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「情報」とはなにか 第1回 ■情報×リアリティ:情報社会における「リアリティ」
大黒 岳彦
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2017 年 60 巻 3 号 p. 192-195

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著者抄録

インターネットという情報の巨大な伝送装置を得,おびただしい量の情報に囲まれることになった現代。実体をもつものの価値や実在するもの同士の交流のありようにも,これまで世界が経験したことのない変化が訪れている。本連載では哲学,デジタル・デバイド,情報倫理史などの諸観点からこのテーマをとらえることを試みたい。「情報」の本質を再定義し,情報を送ることや受けることの意味,情報を伝える「言葉」の役割や受け手としてのリテラシーについて再考する。

第1回は,情報によって構成される新たな社会的「現実(リアリティ)」,そしてその階層化について,大黒岳彦氏が考える。

本稿の著作権は著者が保持する。

日常世界とリアリティの自明性

人々は日常生活を「リアリティ」に依拠しつつ営んでいる。つまり人々は,日常生活の中で「リアリティ」を自明なものとみなし,受け入れている。この生活世界の母胎ないし土台である「リアリティ」の自明性を疑い始めた途端,われわれは一挙手一投足に際しても疑心暗鬼に陥る。たとえば,太陽が東から昇って西に沈むという事実や大地が不動であることは,われわれにとっての「リアリティ」を構成しているが,そうした事実が一瞬でも疑われるときには,一歩を踏み出したり,朝起きるという行動を起こすことにすら困難を来(きた)す。こうした天体や大地の「リアリティ」は安定的であって,そう簡単には揺るがない。明日も明後日も十年後も,そしておそらく十万年後も太陽は東から昇り西へ沈むであろうし,陸地と海域との比率は3:7であり続けるはずである。これらが急変するというSF的事態はそうそう起こりそうにない。これは地球物理学的な水準の「リアリティ」が文字通り天文学的・地質学的なスケールでしか変化しないことに基づいている。

だが,「神」や「国家」の存在といった宗教的あるいは政治的「リアリティ」についてはどうだろう? これらもまたたしかにわれわれの日常生活を支えるリアリティの一斑をなすが,先の地球物理学的なリアリティに比べると,それほど安定的とはいえない。われわれはその変化を宗教改革や政治革命の過程や顛末(てんまつ)を記述した文書・文献から確認できるし,場合によっては現場に立ち会って観察したり体験することさえ可能である。つまり宗教的・政治的水準の「リアリティ」は人為的な形成物であり,そうであるがゆえに歴史過程の中でそれは変容しうる。現在流行中の人工的にしつらえられたバーチャル「リアリティ」や人間関係の濃密さによって感じられる心理的な「リアリティ」はさらに変容しやすく,相対的なものになってくる。

「実在」としての「リアリティ」

こうしてちょっと反省してみればわかるように,日常世界を支える「リアリティ」は上述のように階層をなして存在しており,われわれが思っているほど単純でも堅固でもない。哲学においても「リアリティ」の概念は伝統的にさまざまな問題系を生み出してきた履歴をもつ曰(いわ)く付きの概念であり,たとえば,J・リッターらの編集になる定評ある哲学辞典『歴史的哲学辞典』(Historische Wörterbuch der Philosophie, HWPh)では「リアリティ」(Realität[ドイツ語],realitas[ラテン語])に関する記述は20ページにも及んでいる。

このように錯綜(さくそう)した概念である「リアリティ」について考えるには,その言葉がどういう文脈で何を示しているのかをある程度厳密に規定してやる必要がある。たとえば西洋語の『reality』に『実在(性)』という訳語があてられる場合,「リアリティ」は見せ掛けではなく「本当に存在するもの」,「世界を構成する究極的実体」を意味し,「見せ掛け(アピアランス)」(appearance)や「仮象(シャイン)」(Schein)と鋭い対立をなす。「蜃気楼(しんきろう)」を例に取ると,その「実在(リアリティ)」は「大気の密度差による光の屈折」であって,「蜃気楼」そのものは錯覚,すなわち「仮象」にすぎない。また物の「臭い」や「手触り」も主観的な「仮象」にすぎず,その「実在(リアリティ)」は物理学的な実体としての「素粒子」である。こうした場合に使われる「リアリティ」には,主観的な把握に左右されない,その向こう側にある物事の客観的な「正体」というニュアンスがある。

「現実」としての「リアリティ」

だが,こうした意味合いでわれわれが「リアリティ」という言葉を用いる機会は理論物理学者でもない限り実はさほど多くない。この言葉が使われるもう一つの重要な文脈は,「想像」物や「人工」物との対比の中で使用される場合である。「漫画チック」という表現があるが,これは発想が奇想天外過ぎて「リアリティ」に欠ける場合に使われる。漫画のような「想像(イマジナリー)」の(imaginary)世界と,「現実(リアル)」世界とのギャップをこの表現は表しているわけである。また,目下流行中のバーチャル「リアリティ」のケースでは,「人工的(アーティフィシャル)」(artificial)環境と「現実(リアル)」環境との相関と対立が示されているとみてよい。こういった事情で,この意味での『reality』には『現実(性)』という訳語があてられる。ここで重要なことは,ある事柄が「現実性(リアリティ)」を欠く場合,それは実際に存在している,つまり先の「実在性(リアリティ)」はもっているにもかかわらず,まだしっかりと社会的現実の網の目に組み込まれるまでには至っておらず,宙に浮いた試行的・模擬的な存在にすぎないことである。たとえば「フライト・シミュレーター」を考えればよい。それは実際に存在している,つまり「実在性(リアリティ)」を有するが,本物の飛行機のように空を飛ぶわけではない。それはあくまでも模擬的・試行的な装置に過ぎず「現実性(リアリティ)」を欠いている。こうした事実からは「実在性(リアリティ)」が物理的水準のリアリティであるのに対し,「現実性(リアリティ)」の方は社会的水準のそれであることがわかる。そして現在の情報社会にとって要(かなめ)をなすのは後者のリアリティである。

社会的「現実(リアリティ)」と「情報」

われわれが直接アクセスできる社会的「現実(リアリティ)」は限られている。それはたかだか五官によって体験可能な範囲,たとえば今いる部屋の内部,戸外に出てみたところで街区の一部にすぎない。にもかかわらずわれわれは政治家が大阪の国有地売却の口利きを行ったこと,また英国でテロが起こり数十名の死傷者が出たことを,直接見聞したわけでもないのに,社会的「現実(リアリティ)」として識(し)っており,それを自明なこととして受け入れている。こうした,直接的に見聞可能な範囲を超えた社会的「現実(リアリティ)」は実は「情報」による構成の所産である。

もちろん単なる「情報」からは社会的「現実(リアリティ)」は構成されない。人々が同一の「情報」を共有することで初めて,その「情報」は社会的「現実(リアリティ)」の一斑として通用し始める。そして同一の「情報」を人々にあまねく頒布し,社会的「現実(リアリティ)」を構成する装置/メカニズムこそが〈メディア〉に他ならない。〈メディア〉による社会構成機能は19世紀半ば以降つい最近まで〈マスメディア〉によって担われてきた。〈マスメディア〉はそのヒエラルキカルな円すい的構造によって効率的に同一「情報」の大衆への頒布を果たし,均質で強固な社会的「現実(リアリティ)」の構成と安定的な維持にこれまで貢献してきた。だが今世紀に入って,インターネットを技術基盤とする〈ネットワークメディア〉の台頭と普及によって,〈マスメディア〉の覇権は急速に侵食され,それと並行するかたちで社会的「現実(リアリティ)」の安定性にもほころびが目立ち始めている。

バーチャリティと新たな社会的「現実(リアリティ)」

「情報」流通における〈ネットワークメディア〉の顕著な特性は,〈マスメディア〉がその円すい的構造の特権的場所である頂点(放送局・新聞社)から,底面(大衆)へ向けての一斉同報送信のかたちを取るのに対し,いかなる特権的場所も存在しない茫漠たる二次元的ネットワーク平面を構成するノード間でのランダムな授受という形態を取ることにある。したがって〈ネットワークメディア〉を流通する「情報」は不均質かつ局所的なものとなり,結果としてそうした「情報」から構成される社会的「現実(リアリティ)」は濃淡のある斑(まだら)状の,歪(ひず)みに満ちたものとなる。このことは,出どころが異なるさまざまな「情報」がすべて,それぞれに固有の相対的な「現実性(リアリティ)」を備えており,これらが合して情報社会のトータルな「現実」が構成されること,したがって何かをきっかけに諸「情報」のレイアウトが崩れれば,それまでの社会的「現実」が簡単に組み替わることを意味している。これはたとえば,〈マスメディア〉によって頒布された「情報」によって構成される安定的「現実」と,〈マスメディア〉の「情報」頒布が(たとえば報道管制や革命などによって)完全に遮断された場合の〈ネットワークメディア〉(たとえばSNS)からの「情報」のみによって構成された「現実」とを比較してみれば容易に理解できよう。政治分野で流行中の「ポスト・トゥルース」(post-truth)という惹句(じゃっく)は,〈マスメディア〉から〈ネットワークメディア〉へのパラダイム・チェンジによって引き起こされた,こうした社会的「現実(リアリティ)」の全面的な相対化現象を端無くもいい表している。

「リアリティ」から「バーチャリティ」へ

筆者は,こうしたネット上を時々刻々流通し,情報社会の「現実」を構成する断片的「情報」体――たとえば「動画クリップ」や「つぶやき(ツイート)」,Pokémon GOの「オーバーラップ画像」やBitcoinの所有額情報――がもつ〈素材〉的な「現実性(リアリティ)」を「バーチャリティ」としてとらえ返したい。「バーチャリティ」(virtuality)の語には「仮想」などという訳語があてられることで「偽物」「まがい物」のニュアンスが常に付きまとうが,「バーチャル」(virtual)とは本来「代替可能な」「本物として通用する」というむしろポジティブな規定性である。あらゆる「情報」が「現実」構成の代替〈素材〉として潜在的な「現実性(リアリティ)」を有するという意味で,それらは「バーチャル」な存在である。翻って「リアリティ」のラテン語源である「realitas(レアリタース)」もまた「もの(レース)」(res)を構成する〈素材〉的要素というのがその元々の意味である。

その意味で情報社会とは,それまでの確固たる「現実(リアリティ)」が,「情報」体の「バーチャリティ」へと解体されると同時に,流動化する社会である。それに伴い「リアリティ」は情報社会において逆説的にも,「ある」か「ない」かのデジタル的二値原理から,濃淡のある「現実(リアリティ)」の連続的段階――これを存在の「度(グラート)」(Grad)ないし「強度(インテンシティ)」(intensity)と呼んでもよい――をもつアナログ的な「バーチャリティ」へと変容する。以上の意味で,情報社会とは汎(あら)ゆる存在を――実は人間をすら――〈素材〉化=バーチャル化する社会なのである。

執筆者略歴

  • 大黒 岳彦(だいこく たけひこ) daikoku@meiji.ac.jp

1961年香川県生まれ。東京大学教養学部を卒業後,東京大学理学系大学院(科学史科学基礎論専攻)博士課程単位取得退学。1992年日本放送協会に入局(番組制作ディレクター)。退職後,東京大学 大学院学際情報学府にて博士課程単位取得退学。現在,明治大学情報コミュニケーション学部教授。専門は哲学・情報社会論。著書に『〈メディア〉の哲学:ルーマン社会システム論の射程と限界』(NTT出版),『情報社会の〈哲学〉:グーグル・ビッグデータ・人工知能』(勁草書房)等がある。

 
© 2017 The Author(s)
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