2024 年 17 巻 2 号 p. 85-86
2024年4月1日から化学物質の自律的な管理に関する改正政省令が全面施行された.この改正の背景・意味さらに第14次労働災害防止計画(14次防)との関わりについて述べる.
1972年に労働安全衛生法が労働基準法から分かれ制定・施行されてから50年が経った.この間,社会的要請あるいは技術革新により労働安全衛生法も幾度となく改正されてきた.化学物質による労働災害件数は減少してきたものの,職業がんなどの重篤な疾病が跡を絶たず,また最近の休業4日以上の業務上疾病は年間約400件に上り,特別規則対象以外の物質による労働災害が8割を占めている.さらに我が国における化学物質管理は世界的な潮流である「自律的な管理」(自律的な管理:法令は基本的な枠組みを定め,具体的な対策は事業者の裁量にゆだねる)からは大きく遅れていることが指摘されてきた.
このような状況を鑑み,化学物質管理を従来の特別規則に基づいたいわゆる「法令順守型」から「自律的な管理」に移行するために大幅な政省令の改正が行われた.この改正の要点は,①労働者が取り扱うすべての化学物質の危険性・有害性を認識できるようにすること,②事業者は自らが選択する方法に従ってリスクアセスメントを実施し,この結果に基づいて労働災害が起きないような対策を講じること,である.これら2点は,化学物質の数が増大しその用途も多様化している現状において労働災害防止には不可欠の要素であるが,従来の労働安全衛生法令の枠組みの中では十分に規定されてこなかった.①,②の背景をまとめると以下のようになる.
① 化学物質管理において,物質の持つ危険性・有害性に関する情報の共有は最上位に位置する,すなわちまず初めに行うべきものである.物質の危険性・有害性はその情報を持っている製造者又は供給者が発信しない限り,物質を受け取る者は知るすべがない.これが物質の危険性・有害性に関する情報発信が義務化される理由である.欧米では基本的に危険性・有害性があると判断された全物質についてそれらの情報提供が義務化されている.一方,日本ではラベル表示及びSDS交付による情報提供が義務化されている物質が限定されていることから,徐々に物質数を増加させ,労働者の化学物質の危険性・有害性への理解を高めることとした.化学物質による労働災害防止のために最も重要な事は,直接的にリスクを削減することができる労働者が取扱い物質の危険性・有害性を知っていることである.
② 自律的な管理においては,事業者は自らの判断でリスクアセスメントの方法を選択し,リスクアセスメント結果に基づいてリスク低減のための対策を講じる.リスクアセスメントは取扱い物質の危険性・有害性の調査,すなわち爆発物・可燃物の取扱量,着火源の確認,健康有害性の重篤度,ばく露濃度の調査(作業環境測定,個人ばく露測定,推定法等)等により行うが,これらの具体的な方法は事業者が選択する.またリスクアセスメントに基づいた措置も事業者の判断により実施する.これによりこれまで限定された物質(特別規則対象物質等)に費やされていた資源を,事業者の優先順位に基づいて運用できるようになる.
2023年度から始まった14次防はこれまでのものとは大きく異なる特徴がある.持続可能な開発目標(SDGs)や健康経営も登場し,安全衛生対策に積極的に取り組む事業者が社会的に評価される環境の醸成が謳われている.また「誰もが安全で健康に働くためには,労働者の安全衛生対策の責務を負う事業者や注文者のほか,労働者等の関係者が安全衛生対策について自身の責任を認識し,真摯に取り組むことが重要である」と述べられている.14次防では労働災害削減のために,8つの重点事項ごとに事業者が目標とするアウトプット指標及び政府が目標とするアウトカム指標が設定されている.そして各重点事項の文頭には,「労働者の協力を得て事業者が取り組むこと」とあり,ついでこれの達成に向けて国等が取り組むことが記されている.8つのうちの一つ「化学物質等による健康障害防止対策の推進」を例に挙げると,事業者のアウトプット指標であるラベル表示・SDS交付率及びリスクアセスメントの実施率が80%になれば,国のアウトカム指標つまり化学物質による労働災害が5%減少するとされている.しかしながら8つの重点事項それぞれについて,どのようにアウトプット指標を実行すればアウトカム指標が達成されるのかは示されておらず今後の課題となっている.
さて,「労働者が自身の責任を認識する」には仕事に伴う危険性・有害性(あるいはリスク)に関する情報伝達・共有が重要であるが,この点に関して具体的な施策は示されていない.現在労働安全衛生で課題となっている作業行動,高年齢労働,過重負荷,メンタルヘルス等はいずれも人(個人)の特性・行動に関するものと言える.これまでの日本の労働安全衛生における災害対策は人の特性・行動からではなく,どちらかというと管理的・工学的な枠組みで解決しようとする側面が強かった(これは「法令順守型」の化学物質管理における種々の措置も同様)ように思われる.一方,欧米での化学物質管理においては労働者の「知る権利」や事業者の「知らせる義務」が謳われ,化学物質の危険性・有害性に関する情報伝達が重視されていた.欧州では数十年前からラベルに危険性・有害性情報を記載しなければ市場には出せないことになっている.また介護作業に関する教育カリキュラムには介護者自身が腰痛にならないようにするための科目が含まれている.日本でも今後は労働安全衛生対策として,健康で働くための権利,人の特性・行動に関する視点を取り入れた労働者教育を行い,労働者自身が業務におけるリスク低減のための行動ができる術を身につける必要があろう.この教育は労働者が安全・健康に働くために必要不可欠であり,「労働者の協力を得て,事業者が取り組むこと」を具現化する方策でもある.
自律的な化学物質管理に向けてすでに実施されている情報伝達システム(ラベル表示,SDS交付)の構築,労働者との情報共有,事業場規模に拘わらないすなわち小規模事業場も含めた化学物質管理者(情報伝達,リスクアセスメント等の担当者)の選任,リスクアセスメントに係る労働者の意見の聴取,さらにこれまでには無かった方法での小規模事業場も含めた周知活動等は他の重点項目でも参考になるであろう.つまり化学物質の自律的な管理は14次防における他の重点項目における課題の解決策を先取りしており,化学物質の自律的な管理の成否は14次防の成否を占っているともいえる.