本論は旧京橋区東側地区において、帝都復興区画整理事業の当時の設計思想と事業実施による街区形成の実態において、必ずしも一致する計画が実施されたわけではないことを実態より明らかにした。また、それらの中には江戸時代の町人地の敷地割りが継承されたものも存在し、既成市街地整備型の区画整理事業と雖も、従前の街区・敷地形状の影響が残存することを明らかにした。そして、事業後の建物立地を分類し、建物配置の違いを生む要因として街区の形状、規模の影響があることを示した。これらの街区の変遷を辿ると、事業後から70年を越える年月をかけて、漸進的に裏宅地を解消して、建物規模が大きくなる傾向にある。ただし、事業直後の建物立地の分類から、裏宅地の解消の速度は裏宅地の配置の連なり方によって異なることが明らかとなった。また、解消後の建築物の建ち並ぶ様子は、裏宅地の配置の影響に付随して変わってくる。つまりは、一律に広域な事業範囲を持つ帝都復興事業であっても、現況において形成された街区を見ていくと必ずしも画一的な市街地が形成されたわけではないと言える。