抄録
本論文は、島根県の歴代県庁舎周辺の官庁街について歴史的に明らかにしたものである。二代目県庁舎が建てられた明治10年代から、行政機構の確立とともに次第に官庁街が形成されてきたことが明らかとなった。その後、県庁の周辺では、広い運動場を持つ教育施設を郊外に移転するとともに、跡地を利用して官庁街の整備が進められた。一方で、戦前の財政が逼迫していたこととも関係していると考えられるが、官公署の転用を頻繁にくり返しながら、官庁街の再編が行われたのである。戦時中には、建物疎開が行われ、木造の主な官公署は、既存の鉄筋コンクリート造建築に移転させられていた。このことは、戦後の制度変更にともなう官公署の改組とともに、官庁街再編の契機となったことが示唆されよう。しかし、ここまでの松江の官庁街は、近代都市計画の大きな存在意義である全体計画あるいは長期計画に基づいた計画ではなかった。松江では、田部長右衛門という名望家が知事に就任したことで、県庁の周辺全体を視野に入れた計画が具体化され、県庁周辺整備計画が強力に推進された。そして県庁を中心にモダニズム建築の傑作が計画的に配置される官庁街が形成された。