土木史研究
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江戸期・明治期辰巳用水の維持管理と保守工事
青木 治夫
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1990 年 10 巻 p. 85-91

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抄録

辰巳用水は360年前の1682(寛永9)年に城中の防火用水を第一目的として造られ、末端に逆サイフォン工法を用い、先ず城内三の丸に、続いて二の丸まで導水された。その時、加賀藩謀反という政治的危機の直後であったから、藩の富裕政策となる新田開発を行い、灌漑後の排水を慶長期に造った城を取り巻く内・外総構堀に流し、城下町防火を名目として、多年の念願であった城の防衛に一役を担わせた。このような性格から、藩政期の管理形態は他の農業専用の用水と異なり、藩が主体となっていた。
この用水の三分の一が当時としては珍しい隧道を用いて、河成段丘の基盤岩層をうがっていた。その大部分が現在も当初の形態を保ちながら流れている。それは、隧道内面の側壁部やそれにアーチ部の巻立(全巻立という)が加わった恒久的な空切石積工が施されたからで、流水による浸食を予防し、落盤や崩壊を防止した。これらの諸工事の内、全巻立がどの時期に行われたかは、用水隧道技術史上から興味ある問題である。
辰巳用水に関する藩政期の史料から、『加賀辰巳用水』土木技術編で解明した隧道築造年次により、全巻立地点が藩政後期改築区間にあることが明かである。明治期になって、明治20(1887)年以後県の経営から民間に移り、数次の法律改正により、今の辰巳用水土地改良区に経営が受け継がれたが、の土地改良区に保管されていた組合予算書により藩政期とくらべ維持管理の状態が明かになった。1907(明治40)年以後の予算書から、大規模な切石積工が行われたことが分かり、その石積工面積の試算から、僅かな地点を除き、現存する切石積は予算表示箇所と一致し、かつ全巻立の施工年次は、北陸線が金沢まで敷設された時期以後となった。

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