抄録
私がケアに携わる視覚障害のある人々は、脳血管疾患急性期から回復期、そして福祉施設において生活訓練の場にいる人々である。
予想もしない視覚障害を負って、生活訓練の場に至った人は、それぞれに思いは異なるが障害を受け入れることができている人々が多い。しかし、受け容れるって何だろうといつも考えさせられる。患者さんたちの体験から、「障害受容」ではない、なにかほかの意味ある患者としての経験があることに気づかされる。
脳卒中発作を体験したかなり早期にある人は、視力自体を失って生活パターンを変更せざるをえなくなる人もいるが、一方で視野のゆがみや見え方の不自由さのために「人には理解してもらえない」苦しみを悶々と体験する人々もいる。
視覚の障害状況はさまざまであっても、「見る」ことを通して生活情報を得ている人間にとって、その人にしか体験できない「自由に見えない」という体験は、どのように理解することができるのだろうか。病理を理解するだけでは「人の理解」にはとうていたどり着くことはできない。
ここにケアの大切な観点がある。「他者からの理解のありよう」は実に多様である。当事者は視覚の障害のある「自己の身体を通して体験する世界」を、「他者の目から見た障害の理解のありよう」とあわせて体験する。また、それは時間の経過の中で「障害の了解のしかた」を変えてくるようだ。
他者であるケアを提供する立場にあるものが、専門職としてまず当事者の体験を理解するためのアプローチとその人が「私の目」を了解して生きていくためのケアについて提示してみたいと思う。