2018 Volume 21 Issue 2 Pages 1-15
本論文では,既存ブランドの海外展開をきっかけにしてブランド・アイデンティティが再構築され,企業成長を遂げていくプロセスを検討する。特に注目するのは,市場環境が変化しているのにもかかわらず,ブランドに対する信念や組織能力,ブランド・イメージに捕らわれるあまり,ブランドの革新が進まず,従来の組織活動が継続してしまうという慣性である。こうしたブランド・マネジメントの慣性は,ブランドの原点に立ち返りそれを現在直面している状況に合わせて解釈するという創造的原点回帰を通じて,ブランドの理想像としてのブランド・アイデンティティが再構築されることで緩和されうる。国内外で生じた慣性が相互に緩和されることで企業成長が実現されていく点が示される。
本論文の目的は,同一企業内で生じた慣性間の相互影響関係に着目して,ブランド・マネジメントの慣性の存在と,それが強化および緩和される条件を明らかにすることにある。そのために本論文では,組織慣性に関する研究とマーケティング資源に着目した研究をレビューした上で,慣性に直面しそれを打破した事例を検討する。
ここでいうブランド・マネジメントの慣性とは,市場環境が変化しているのにもかかわらず,ブランドに対する信念や組織能力,ブランド・イメージに捕らわれるあまり,ブランドの革新が進まず,従来の組織活動が継続してしまうことである。関連するマーケティング研究において,企業が蓄積した経営資源の存在によって市場環境の変化への対応が阻害されてしまう点が明らかにされてきた(Hansen, McDonald, & Mitchell, 2013;Slotegraaf & Dickson, 2004)。しかしながら,ブランドにまつわる資源が当該企業にもたらす負の側面について,市場環境の変化やブランドに対する当事者の認識に焦点を合わせて明らかにした実証研究は,必ずしも進められていない。
本論文では,リブランディングや既存ブランドの名前を冠した新たなブランドの立ち上げ,そして現地化の意思決定とその実施を阻んでしまう,主体の認識に焦点を合わせる。本論文は,同一企業に着目するという意味で単一事例研究ではあるものの,時間的な展開を踏まえて複数のブランドに着目することで,比較分析の強みを活かしながら慣性の強化・緩和の条件を明らかにすることのみならず,慣性間の相互影響関係について新たな仮説を提示したい1)。
組織における慣性については,主に組織研究やイノベーション研究において検討されてきた。ここでいう慣性とは,組織が外部環境の変化に直面しながらも,それに比較的ゆっくりとしか反応せず,ある特定の組織活動が継続することを意味する(Gilbert, 2005;Hannan & Freeman, 1977, 1984)。物体の慣性と異なり,組織慣性においては,外からの力としての市場環境の変化があったとしても,それが主体の認識に影響を及ぼさなければ,組織の存続や成長を結果的に阻むものであっても組織全体としての活動は継続してしまう(Huff, Huff, & Thomas, 1992;Jackson & Dutton, 1988)。
変化する環境に対する認識に応じて,どのタイプの組織活動が継続されるか否かが変わってくる(Gilbert, 2005, 2006;Gilbert & Bower, 2002)。脅威の認識が生じた場合には,資源配分のパターンを変えることができるという点で慣性は弱まる一方で,業務プロセスを変えることが難しくなる。蓄積された組織能力が足かせとなり,これまで築き上げてきた収益モデルや日々のオペレーションを踏襲してしまうためである(Leonard-Barton, 1992;Rumelt, 1995;Tushman & Anderson, 1986)2)。
企業の強みである経営資源が成長を阻んでしまう点については,マーケティング研究において,資源やケイパビリティに着目した研究において少なからず関心が寄せられてきた。リブランディングに代表されるブランドの革新を阻んでしまう要因として,企業内外で蓄積されてきたブランドにまつわる2つのタイプの資源の存在が想定される(小林・高嶋,2005;大竹,2017)。
第1に,組織研究やイノベーション研究で主に議論されてきたタイプの経営資源,すなわちブランドを構築する際のオペレーションに関わる組織能力である3)。具体的には,一貫したブランド連想の構築や顧客インサイトを踏まえたポジショニングといったブランド・マネジメント能力(Morgan, 2012;Vorhies, Orr, & Bush, 2011),顧客関係性管理の能力(Boulding, Staelin, Ehret, & Johnston, 2005;Morgan, Slotegraaf, & Vorhies, 2009)などである。こうしたブランド・マネジメントに関わる組織能力を含むマーケティング資源の存在によって,戦略オプションが制約されてしまうという逆機能が生じることがある(Atuahene-Gima, 2005;Hansen et al., 2013;Slotegraaf & Dickson, 2004)。
第2に,市場の状況,顧客や競争他社の動向といった環境に関する事実や知覚,信念といった企業が保有する知識および関係性としての資源である。企業の評判や製品イメージ(Gao, Pan, Tse, & Yim, 2006;Hooley, Greenley, Fahy, & Cadogan, 2001),顧客との関係性やビジネスパートナー・政府の社会資本(Luo, Griffith, Liu, & Shi, 2004;Palmatier, Dant, & Grewal, 2007)など,組織活動の結果,企業にもたらされた資源を含む4)。なかでも名前やシンボルなどを意味するブランドは,持続的競争優位の源泉として社会的な複雑性を備えた資源となりうる一方で(Barney, 2014),市場においてブランド・イメージが,また,ブランドに対する信念が組織において強固に共有されている場合,企業にとって負の側面が生じたり困難な状況に直面したりする可能性がある5)。
例えば,ブランドの理想像としてのブランド・アイデンティティを維持しながら,消費者ニーズの変化や企業外部で生じたイノベーションに対応してブランドを革新するという両立し難い状況が生じる(Beverland, Wilner, & Micheli, 2015;Harada, 2015;Yakimova & Beverland, 2005)6)。ブランド・マネジメントのルーティンが強化されるほど,「このブランドらしくない」という「表現」によってブランドを変革しようとする行動が阻止されてしまう可能性もでてくる(小林・高嶋,2005,p. 30)7)。さらに,顧客が抱いているであろうブランド・イメージに捕らわれるあまり,市場環境の大きな変化に直面しているのにもかかわらず,それに合わせてブランド・コンセプトを変えるといったリブランディングが実行できないことがある(久保田・大竹,2016;大竹,2017)8)。
2.2 慣性の緩和:環境とブランドに対する認識の相互影響関係組織慣性が緩和される要因は主に3つある(Gilbert, 2005, 2006)9)。第1に,市場環境の変化に対して機会の認識が生じることである。脅威の認識から機会の認識へと変化した場合において,収益モデルやオペレーションに関わるルーティン慣性が緩和されうる。機会の認識は,外部の情報探索を促したり未来に焦点を向けたりすることを促し,組織活動を見直す肯定的な契機となる(Dutton, 1993;Jackson & Dutton, 1988)。
第2に,環境変化に対応した組織や部門の設定である。市場環境の変化に対応する独立した集団を設定することで,ルーティン慣性が緩和されうる。新たな技術革新によって生まれた新しい市場の消費者ニーズに合わせた規模と目標を設定した組織や部門に,新しい事業構築の任務を与えることで,成長機会を追求させるのである(Christensen, 1997;Christensen & Raynor, 2003)。
第3に,外部主体からの影響である。外から招かれた経営者や外部のパートナーといった既存組織に揺らぎをもたらす主体からの影響によって,独立した組織や部門の設定が促される。当然ながら外部の声を受け入れる姿勢も必要ではあるが,慣性を主体的に打破するためには,新たな外部主体からの影響が必要であり,それを自らが意図して求めなくてはならない。公式,非公式を問わず,外部とのつながりが,こうした内部の意思決定に影響を与える(Podolny, 2001;Stuart & Podolny, 1996)。
上述の通りマーケティング研究において,ブランドにまつわる資源の存在が市場環境の変化に応じた革新活動を阻んでしまう点については関心が寄せられてきた。しかしながら,2つめのタイプの知的資源を取り上げた研究であっても,実証研究において焦点が合わせられてきたのは,個人や組織のマネジメント能力であり,環境や資源に対する当事者の認識については見過ごされてきた(Vorhies et al., 2011)。
また,マーケティング研究においては,蓄積された組織能力によって戦略オプションが制約されてしまうという「資源ロックイン」が緩和される条件が検討されてきた。例えば,市場で勝ち残るための最善の方法を発見しようとするマーケティング組織の態度や市場志向性の強さ,それに伴う相互機能的な組織体制などである。しかしながら,こうした実証研究においても,変化する市場環境に対する当事者の認識には焦点が合わせられてこなかった(Atuahene-Gima, 2005;Hansen et al., 2013)10)。
したがって,外からの力としての市場環境の変化に対する,個人と組織全体の認識を考慮に入れた慣性という概念を導入することで,ブランド・マネジメントに関わる組織活動に対して市場環境の変化がもたらす影響について,異なる分析レベルを踏まえて精緻に検討すること可能になる。また,当事者の行為のみならず,その背後にある信念や意図,認識について時間的な展開を踏まえて検討することは,同一企業内で生じたブランド・マネジメントに関わる複数の組織活動間の相互影響関係を明らかにすることにつながる(cf.沼上,2000)。
慣性が緩和される3つの要因とブランドにまつわる認識との影響関係を踏まえたリサーチ・クエスチョンは次の3つになる。(1)慣性を強化・緩和させるブランドにまつわる認識とは何であり,それは市場環境の変化に対する脅威もしくは機会の認識とどのような関係にあるのか,(2)別組織や部門の設定は,既存組織や部門におけるブランドにまつわる資源に対する認識にどのような影響を及ぼすのか,(3)別組織や部門の設定を促す外部主体からの影響とは何か。後者2つの問いは,別組織や部門の設定についての成果と要因に関するものである。
本論文では,これらのリサーチ・クエスチョンについて,既存ブランドの海外展開に伴う現地化・標準化の相互作用を通じた環境と資源に対する認識の変化,および,それが国内でのブランド展開に及ぼす影響に焦点を合わせて検討する。その理由は,既存ブランドの海外展開の一部において,ブランドにまつわる資源に依拠した慣性が生じることのみならず,海外展開をきっかけにして環境や資源に対する認識が変化し,国内で生じた慣性が緩和される可能性があるためである11)。本論文では,既存ブランドの海外展開の後に,国内において既存ブランドの名前を冠した新ブランドの立ち上げ,および,リブランディングを実行した事例を取り上げる。
本論文では,主に女性向けファッションの企画販売を行っている株式会社バロックジャパンリミテッド(以下,バロックと表記)のブランド展開に着目する13)。同社は,2000年に創業した株式会社フェイクデリックを前身とするファッション・ブランドを展開する企業である。同年4月にMOUSSYを渋谷109で展開し始め,現在ではショッピングセンター向けのブランドAZUL by moussyや30代以上の女性をターゲットとした高価格帯のENFÖLDなど,15のブランドを展開している。
本論文で着目するのは,既に中国での店舗数が国内を上回っているMOUSSY,および,2008年から展開され国内市場で同社の売上トップを占めているAZUL by moussyである14)。MOUSSYについては,中国市場に展開するにあたって一時的に現地化が進まず,国内市場では14年あまりにわたり思い切ったリブランディングを実施してこなかったという経緯がある。また,AZUL by moussyについては,トップ自らが構想を社内で提案したものの,ほぼ全ての社員が反発するという事態に陥ったことがある15)。
事例分析では主に,2006年以降トップとして海外展開を主導してきた村井博之氏(現 代表取締役社長 兼 最高経営責任者),2008年から顧問として村井氏のアドバイザーを務めながら販売部長を兼任してきた廣瀬雅則氏(現 株式会社フォーアンビション 代表取締役),中国に駐在しMOUSSYの海外展開に関わってきた福岡俊之氏(現 STACCATO事業部 副事業部長),に対するインタビュー調査に基づいている。その他にも,公刊資料や販売店舗での直接観察といった複数のデータ源を用いた16)。そして,慣性間の差異に焦点を合わせて,慣性が強化および緩和される要因を抽出する作業を行い,理論的飽和に至るまでデータ収集とコーディング作業を続けた(Glaser & Strauss, 1967)17)。
以下では,ブランド展開について3つの段階に分けて検討していく。具体的には,既存ブランドの海外展開時において生じた慣性が緩和され(3-2),その過程で変化した主体の認識と行為の一部が国内における新たなブランドの立ち上げ時に生じた慣性の緩和を促し(3-3),最終的に既存ブランドのリブランディングへと至るプロセス(3-4)について,時間的な展開を踏まえて検討する。
3.2 海外展開に伴う慣性:中国市場におけるMOUSSYの現地化(2007年-)2007年に現地法人を設立して海外市場に本格的に参入した背景には,MOUSSYやSLYといったブランドを前身の企業から引き受け,バロックを設立した村井氏の危機感があった。当時,少子高齢化が進み,国内アパレル市場は縮小しつつあった。また,米国の住宅ローン危機を現場で目の当たりにしていた村井氏は,いずれ米国で稼げなくなったファスト・ファッション企業がアジア市場に力を入れ,競争が激化するとの危機感を抱いていた。
なかでも中国市場に目を向けた理由は,世間で言われているほどカントリーリスクは高くなく,いくつかの制約があるものの日本に近い市場であるために,109ビジネスで培った高坪効率を実現する同社のノウハウが強みになると考えていたからである。さらに,大手日本メーカーでの北京駐在,30代でコンサルティング会社の設立や航空会社の香港法人社長といったキャリアを重ねてきた村井氏は,中国市場に関する知識やビジネスのノウハウ,ネットワークが活かせると考えていた。駐在員時代の経験を通じて,現地の人たちがその国で自由にジャッチできるモデルを構築したい,という強い想いも生まれていた。
現場レベルでは参入当初,日本のブランドであることを前面に押し出しながら,国内の商品をそのまま持ち込み,プロモーションや店舗運営,例えばすべて直営で管理していくなど「標準化」を進めていくことになる。というのも,中国の一部では,日本の若者文化の情報が浸透しており,マルキュー文化に興味関心のある若い女性が存在していたからである。
日本とは異なる文化,ファスト・ファッションという新たな業態の誕生,そして現地企業を含む競争企業の存在に対して,多少の危機感を抱きながらも,MOUSSYを知る若者もおり,彼女らの間では他のブランドとは異なるイメージが共有されているという認識が現場の社員にはあった。当時,現地に駐在していた福岡氏は,「当時中国では可愛い系のファッションが中心であり,かっこよさやクールなMOUSSYは中国市場にはない存在であった。そのまま中国に持っていけば受け入れられると考えていた」と振り返る(インタビュー,福岡氏,2017年4月18日)。
しかしながら,店舗を広げていく過程で売上が伸び悩む。その要因を現場では,商品の補充力不足や販売スタッフの質の低下などに加えて,商品構成,日本的な考え方,ビジネススタイルなどを現地法人バロック上海に持ち込み,現地に任せきれなかったことに求めていた18)。さらに,バロック上海に転籍した日本人社員たちには,細かい部分において現地のニーズや環境に合わせていこうという考えが徐々に芽生えていたものの,なかなか「現地化」できないという状況に直面していた。
その一方で,現地法人の経営陣や中国人社員には,駐在社員よりも自分たちの方が消費者のニーズや現地の事情を把握しているという自負があり,日本のやり方を必ずしも受け入れるわけではなかった。駐在社員は,売上を伸ばすために商品企画やプロモーションの現地化を進めようとしていたものの,本社からは現地で勝手なことをやらずに本社のアプルーブを取るよう指示される,という板挟みの状態に置かれ,葛藤が生じていた。本社のMOUSSY事業部の社員らと一心同体で取り組んでいるつもりでいたが,本社の事業部ではMOUSSYに対して強いプライドをもっており,勝手に変えられることに対して反発が生まれていた。
こうしたなかで同社は結果的に,中国市場のニーズや環境に合わせた取り組みを進めることになる19)。商品でいえば,刺繍やワッペンの入ったジャケット,現地の人が好みそうな赤色を用いた商品といったように,現地企画の商品を徐々に増やしていった。またプロモーションにおいては,日本では当たり前であったファッション雑誌を通じた情報伝達ではなく,当時若者たちの主要な情報源となっていたテレビメディアに取り上げてもらえるように,ファッションショーに頻繁に出るなど,日本とは異なる施策を次々に打ち出すことになった。
マーケティング施策の現地化が進んだ背景には3つの要因がある。第1に,MOUSSYの原点ともなった考えを中国市場に合わせて再解釈した。異なる分野からファッション業界にきた村井氏は,同社の原点であり主力のブランドであるMOUSSYに対する理解を深めるために,MOUSSYとは何かを改めて確認する作業を行った。その過程を通じて,「自分たちが着たい服を作って自分たちで売る」という考えがMOUSSYの哲学でありDNAでもあるとの認識に至った。そして,「自分たちの着たい服がないから作る」「作り手と売り手が同じ」という考えがブランドの原点にあったと考えて,ここでいう「自分たち」とは我々本社の人間を指すのではなく,中国市場における現地の人,すなわち若い中国人を意味しており,作り手と売り手も中国人であると捉え直した。
さらに村井氏は,もうひとつのMOUSSYの原点を「その時代のトレンドをセットするという精神」にまとめてそれを,純日本式スタイルを保つのではなく,女性が各自持っているその人らしさを外側に表現することを重視し,現地で新たなファッション文化を作り上げる,という考えに昇華させた。商品についていえば,「男性に媚びない,かっこいいファッション」というブランド・コンセプトにおいて,「これはMOUSSYっぽいというのが現場からどんどん出てくるのがブランドの理想の姿」と捉えた(インタビュー,村井氏,2017年2月15日)。
第2に,「MOUSSYの理想の姿」を実現すべく別組織を設けた。中国の婦人靴小売り最大手ベル・インターナショナル(以下,ベルと表記)との合弁会社として,バロック・チャイナを設立した。ベルが持つノウハウ,例えば出店場所の確保や消費者ニーズの把握に加えて,物流などのインフラを借りることで,よりスピード感をもって展開を進めるようにした20)。合弁会社には日本から5名ほど転籍したが,その他1000名程度の社員は全て現地スタッフである。
基本的な考え方を共有するために,例外的に村井氏が日本人役員として在籍し緩やかな結びつきを持った。具体的には,村井氏がかつて駐在時代に培ったSCMのノウハウやネットワークを合弁企業と共有しながら,現地の若い中国人社員が自分たちが着たいものがないから考えて作ろう,という現地の状況に合ったMOUSSYの哲学を共有しようとした。
第3に,駐在社員と現地社員による現地化・標準化をめぐる商品や接客など,具体的なレベルでのやりとりである。日本人の駐在社員が「ストーリーテラー」として現地に関与した。具体的には,創業時のやり方を振り返り,ブランド・コンセプトのみならず「MOUSSYはこうして作ってきた」というように,中国人社員に対して再現的に教えていった。
その一人である福岡氏は,本社のMOUSSY事業部において経験を積んでおり,ブランド・コンセプトである「かっこよくてクール」という基準から逸脱しない商品とは何かを現地スタッフらと話し合いながら,中国で取り扱う商品を選別していった。また,村井氏は現地日本人社員らと食事に行くなどして,マクロ環境の状況や,現地の事情に合わせて再解釈した「MOUSSYの理想の姿」を共有しようとしていた。
さらに現地の社員には,日本のファッションが好きで日本語も堪能な中国人を採用し,中国人MD,本社の日本人MDや企画担当者らが週一回のペースでテレビ会議を行うなどして,何を変え何を変えるべきではないのか,について議論した。MOUSSYの価値を現地消費者に伝えるキーパーソンとしての役割を担っていた中国人MDは,本社を度々訪れて同様のやりとりを行いながら,新たなMOUSSYのアイデンティティを共有していく。
以上3つの要因,すなわち現地の人が着たい服,現地の人たちが作り手となり売り手となるという,ブランドの原点と市場環境の変化を踏まえたアイデンティティの再解釈,および,組織内での共有と強化は,国内でのブランド革新にも影響を及ぼすことになる。具体的には,既存ブランドの名前を冠した新たなブランドの立ち上げと,既存ブランドのリブランディングである。以下では,AZUL by moussyの立ち上げ(2007–08年)とその後の資源投入(2009年以降),および,国内におけるMOUSSYの明確な意図を持ったリブランディングの推進(2014年)について検討する。
3.3 明確に認識された慣性:AZUL by moussyの構想に対する反発とその収束(2007年-)本格的に海外展開を始めた2007年,新たなブランドの構想が村井氏のなかで浮かび上がってきた。当時米国で生じていたのは,経済危機によって上中間層消費意欲が減退し,中高価格帯のブランドから消費者の足が遠のいていることであった21)。いずれ日本でも同様の変化が生じるという危機感のなかで,MOUSSYはこうしたマクロ環境の変化に適合していないと考えていた。MOUSSYは10代後半から20代前半の若者層にとって若干高めの価格帯のブランドであり,憧れのブランドとして認知されていると認識していた。経済危機が生じれば,それが逆に弱みとなって,コアファンとなっていた若者からMOUSSYは高すぎると見なされてしまう,と村井氏は感じていた。
その一方で村井氏には,同社が大きく飛躍するきっかけになるとの考えも生じていた。というのも,同社がこれまで取り込めていなかったマスマーケット・ローエンドに合わせたブランドを立ち上げることで,さらなる成長が見込めるからである。村井氏は,米国から帰国するとすぐに,ボリュームゾーンに向けたブランドを構想し始めた。それがAZUL by moussyである22)。ボリュームゾーンのマスマーケットに社員の目を向けさせ,コンセプトを社員に分かり易く伝えるために,「安いMOUSSY」という言葉を用いて提案することになる。
しかしながら,提案は社員にとって受け入れ難く,ほぼすべての社員から抵抗が生じた。MOUSSYを立ち上げ,そこに集まった社員たちは,マルキューチームとして「結社」という言葉が使われるほど「村社会」の色彩が強かった。当時,構想を知った社員からは,「うちらがやることではない」「自分たちのブランドが侵される」「うちの会社はダサいことはやらない」「服にアテンションしない人は仲間じゃない」といった声が上がった。
また,社風に合っていないという理由に加えて,「by moussy」という創業の原点でもあるブランド名が使われていることも反発を招く要因ともなった。例えば,「マウジーらしくない」「マウジーのイメージが悪くなる」「マウジーが売れなくなる」というように,MOUSSYのブランド力を活用する施策の一つとして構想した「by moussy」に対する抵抗感も強かったのである。さらに,「なぜ安売りするのか」「そんな安いデニム作るつもりはない」「かっこ悪い」といった声も上がり,現場の販売員まで反旗を翻す,というボイコット運動にまで発展しかけない状況であった23)。
2007年当時,社員の一部ではファスト・ファッションの勃興や少子化による市場の縮小に対して多少の危機感はあったものの,マルキューブランドとして確固たる地位を築いたMOUSSYは,若い女性において際立ったイメージが浸透しており,自分たちのブランドに対して強い自信を持っていた。「ギャル文化を作り上げてきた象徴的なブランド」という認識が社内で定着していた。AZUL by moussyはMOUSSYのコアなファンたちに対して間違ったメッセージを発することになり裏切ることにもなる,と社員の多くが考えていた。
こうした状況において,村井氏や廣瀬氏は構想の実現に向けて動くことになる。具体的には,2つの取り組みを行った。ひとつは,社員を食事などに連れていき,ファッション市場でボリュームゾーンをとっていく必要性を説明したことである24)。MOUSSYのブランド力という「今ある武器や資産」を使って手を打たなければ成長できないことを説明し,理解させようとした。
その際に,社員を説得するためにいくつかの根拠を用いることになる。例えば,イタリアのブランド「アルマーニ」が,カジュアルラインで低価格帯のブランド「アルマーニ・エクスチェンジ」を展開しているように,高級ブランドでもプライスレンジの異なるブランドを持っていることを指摘した。また,MOUSSYが急成長できたのは,MOUSSYを立ち上げて成長させてきたメンバーが,業界のアウトサイダーとして業界に新たな風を吹き込んできたからである,というように創業の理念や精神を捉え直して強調した。それによって,バロックとしてのアイデンティティを共有しようとした。
もうひとつは,社内を説得しながらも,スピード感をもって新たなブランドを展開していくために,外部から人材を招き,既存社員を一人も入れずに新たなチームを作ったことである25)。社員が「安いMOUSSY」を作りたい,売りたいと思わないのであれば,構想に共感する人を外部で探し,その人に任せるしかないと考えていた。「109のマウジーの世界から彼ら彼女らは踏み出ることが,なかなかできなかった時代だったので,現場に連れてくるのはアウトソーシングしたチームにしようと,よそから全部引っ張ってきた」(インタビュー,廣瀬氏,2017年3月24日)というわけである。
具体的には,大手アパレルメーカーから移籍した社員を中心に,MOUSSYが好きで自らの世界観を表現したいと考えていた移籍社員をリーダーとして,5名のチームを組んだ。メンバーたちは,欧米のファスト・ファッション企業による日本展開が市場拡大をもたらしており,自分たちも飛躍するチャンスとして見なしていた。MOUSSYよりも低価格で多くの若者が手に取りやすい価格帯において,MOUSSYと自らの世界観を踏まえて自分が着たい服を作ろうとしたのである。
手段を選ばない村井氏らの動きや,外部から来たAZUL by moussyのリーダーに対して既存社員の一部には不信感が生じたものの,村井氏は経済的合理性や先の説得材料のみならず,創業の原点を踏まえて新たな根拠を示しながら,別チームの存在意義を既存社員に理解させようとした。
例えば,もともとMOUSSYを企画したのは,大手専門学校の服飾コースや美術大学などでファッションを学んだ者ではなく,社会に不満を感じ,ある意味ではスピンアウトした若者であった。我々は,現場の社員や外からきた者たちにチャンスを与え,結果を出した者たちには富をしっかり配分する,というジャパニーズ・ドリームを実現させる仲間たちの集まりである26)。こうした集団が外から見て魅力的であったからこそ,それに共感して同社にモチベーションの極めて高い若者たちが集まり,成長してきた。これが創業の精神であり,今回も外部の人間を呼ぶことは同じことである,という点を強調した27)。
既存社員の反発の収束には,意図していなかったものの,MOUSSYの海外展開も影響を与えることになった。現地の人が着たい服,現地の人たちが作り手となり売り手となる,という村井氏の解釈は,新たな価格帯において自分たちが着たい服を作らせるという考えを強化した。また現場レベルでは,AZUL by moussyとMOUSSYの事業部間でブランド・アイデンティティやその具体的なコンセプト,そしてマーケティング施策についてお互いに学び合っていた。
例えば,当初は接点がなかったものの,商品企画から細かい仕様の決定まですべて本社で管理するという姿勢を持っていたMOUSSY事業部は,市場の変化に対応すべく,外部の企業を効率的に使いながらリードタイムを短くするAZUL by moussy事業部の手法を徐々に学び,結果的にその一部を取り入れた。一方でAZUL by moussy事業部は,服に対する異常なまでのMOUSSY事業部のこだわりを肌で感じ,中国市場においてもトレンドセッターとして独自性を体現していくその姿勢に刺激を受けていた。結果的に,既存社員の反発の多くは,AZUL by moussyのビジネス面での成功に加えて,相互的な学びを通して収束し,AZUL by moussyの展開に人材や資金が投入されていく。
3.4 明確には認識されなかった慣性:MOUSSYのリブランディング(2014年-)2000年にMOUSSYを立ち上げ,その後,同ブランドの海外展開とAZUL by moussyの国内展開を進めるなかで,経営陣にひとつの課題が認識されつつあった。それはMOUSSYの変革の必要性である。これまでMOUSSYは,その時の状況に合わせてテイスト感を変えるという2,3年おきのリニューアルを行ってきた。14年間にわたる経緯について村井氏は,「オーガニックに変わってきた天然のブランドにとどまっていた」と振り返る(インタビュー,村井氏,2017年2月15日)。
企業全体としてMOUSSYの大幅なリニューアルを実施しなかったのには,いくつかの要因がある。先に検討したように,社員の一部では少子化高齢化の進行やファスト・ファッションの勃興に対して危機感が生じていた一方で,ブランドに対して自信と明確な理想像を共有していた。ギャル文化という一時期のブームはさったものの,明確なブランド・イメージ,マルキューブランドの代表格,憧れのブランドとして若者層から支持され,コアファンの継続的購買が顕著に見られていた。
経営陣においても,際立ったブランド・イメージが若者の間に浸透しているブランドに自信をもっており,商品や店舗のテイスト感を若干変更する程度で対応し続けることを容認してきた。従来型のギャル文化の衰退とともに売上が伸び悩んでいたことに対しては,コンセプトが異なるブランドを複数展開することで対応していた。渋谷109の1坪から展開されたマルキューブランドとしてのMOUSSYは,高坪効率を実現するノウハウが強みであったものの,市場で定着していた「バロック=ギャル」というブランド・イメージやそれを具現化したテイスト感を変えることができないでいた。MOUSSYの強みであったギャルイメージは,逆に弱みとなりブランドの成長が阻まれていたのである。
こうした状況においてMOUSSYを大幅見直そうという認識が経営陣のなかで生まれてきた背景には,MOUSSYの海外展開とAZUL by moussyの国内展開という2つの事業活動がある。海外展開に力を入れ始めていた経営陣らは,コアファンの高齢化や従来型のギャル文化の衰退という市場環境の変化を,ブランドが飛躍するチャンスであると考え始めていた。なぜならば,海外市場に打って出るためには,「地産地消の考えを脱皮して,日本を抜けるための次なる基準」を設定する必要があったからである。
より質を追求し,ブランドが大きくなるための耐久力をつけるために何を見直すべきなのか,それを考えるきっかけが海外展開を始めるなかで生まれたのである。村井氏の言葉を借りるならば,「天候に左右される植物みたいにならないようにするためには,トップによる意図的なブランディングが必要」となり,国内市場のみならず海外市場において現地の人が着たい服を作り売るブランドとしての理想を実現するための「ブランドの耐久力」を磨こうとしていた(インタビュー,村井氏,2017年2月15日)。
AZUL by moussyの国内展開も,トップによるMOUSSYのリブランディングを2つの意味で後押しすることになる。まず,当初からある程度想定していたことではあるが,AZUL by moussyとMOUSSYとの間にカニバリゼーションが生じてしまった。2008年に立ち上げたAZUL by moussyは,短期間で数十億円規模のブランドに成長したが,同時期にMOUSSYの売上は20%程度減ってしまった。この下げはAZUL by moussyに顧客が流れたことに起因していると経営陣は考えていた。村井氏は,国内で消えたMOUSSYの市場を海外に求めようとする思いがより強くなり,競争力のあるブランドにするために,マーケティング施策をトップダウンで精査することが必要だとの認識に至った28)。
村井氏が「経営者が意図をもってこのブランドを変えていこうというアイデンティティをもって変えた」と述べるように,大幅なリブランディングを実施することになる(インタビュー,村井氏,2017年2月15日)。具体的には,2014年にクリエイティブメンバーを,ブランド・アイデンティティや変化しつつある市場環境に対して村井氏と同様の見方をもつ社員に入れ替えて,ブランドのシンボルカラーを中心に大幅に変更した。それまで同ブランドでは黒いイメージを強調していたが,それとは正反対の「白いMOUSSY」に変更した。また,MOUSSYは「ターゲット・コンシューマー」を明確には設定しておらず,その意味でもオーガニックなブランドであり続けていたが,それを「こういう人たちに買ってもらいたいというアイデンティティを植え付ける」というように明確に定義して,細かい要素の変更をこのチームに任せた29)。
こうしてトップ主導でリブランディングが進むことに対して社員の一部からは,「ブランド・イメージを強制的に変えることはいかがなものか」といった声が上がったものの,上述したリブランディングの必要性を説明し,それを共有することで反発は収束していく。村井氏自身の言葉を借りるならば,「議論はするけど一度決まったことはみんなでやろうというのが我が社の主義」というように,「素晴らしすぎる創業の理念」に立ち返り,現場に任せるだけでなく,タイミングを見計らって海外でも通用する耐久力のあるブランドとしてアイデンティティを再定義し,それを組織全体に浸透させていった。
それを示すように,ストーリーテラーとして中国市場でMOUSSYの現地化に関わってきたチームでは,世界で飛躍するために必要となることとMOUSSYらしい商品が海外市場から生まれてくるというブランド・アイデンティティが共有されつつあった。MOUSSYのリニューアル後の店舗設計など,市場環境の変化に対応した施策の一部が中国市場の展開に採用される一方で,中国現地企画の商品を日本で販売するようにもなった。
2008年以降落ち込んでいたMOUSSYの売上は,リブランディングを実施した後,増加に転じた。また,創業の原点でもあるブランドを大幅に見直し,「バロック=ギャル」というブランド・イメージを脱することで,MOUSSYの海外展開が加速することになる30)。同社は現在,アパレル企業というカテゴリーからの飛躍という新たな呪縛からの脱却を目指している。「その時代のトレンドをセットする」という再解釈された創業の原点のひとつに立ち返り,そのカテゴリーが洋服であっただけと考えて,トレンドセッターとして服作り以外の分野においても新しいトレンドを創り出していくことを目指している31)。
同社は,ブランド・マネジメントに関する複数の慣性に直面したものの,それらを打破することで成長を遂げてきた。本節では,3つのリサーチ・クエスチョンを踏まえて発見事実をまとめた上で,慣性の緩和を促す根本的要因のひとつについて議論する。
第1に,市場で定着していると当事者が考えるブランド・イメージとブランド・アイデンティティを同一視している場合,市場環境の変化に対して脅威の認識が生じづらくなる。また,同一視されていると,仮に脅威や機会の認識が生じたとしても,新しい組織活動が阻まれてしまうことがある。
同社の一部では当初,従来型のギャル文化の衰退や少子化,国内外のニーズの違いといった市場環境の変化を,自社に対する脅威として明確には認識していなかった。MOUSSYの海外展開において現地化が阻まれてしまったのは,国内展開を通じて形成されたブランドらしさが強固に当事者にあったからである。AZUL by moussyの立ち上げにおいても社員の間では,MOUSSYらしさに適合していないということで反発が生じていた。またMOUSSYにおいて従来型のギャルイメージから抜け出した施策が打てなかったのは,それがブランドの強みでもあったからでもある。
バロックが考えるブランドのあるべき姿としてのブランド・アイデンティティを,ギャル文化を創造したブランドあるいはマルキューブランドの代表格として顧客が抱いているであろうブランド・イメージと同一視してしまう,という状況が生じてしまっていたわけである。そうした状況において,一部では市場の変化に対して脅威の認識が生じていたものの,既存ブランド名を用いた新たなブランドの設定のみならず,新たなターゲット層の設定やブランド・コンセプトの再編,店舗のビジュアル面での変更といった新しい取り組みが阻まれてしまっていた。
第2に,こうした同一視は,再構築されたブランド・アイデンティティを共有し,変化する市場環境を機会として認識した組織・部門の設定によって打破されうる。MOUSSYの海外展開においては,ほぼ全ての社員が現地の人からなる合弁会社を設立し,AZUL by moussyについては外部から人材を集めて別チームを立ち上げ,MOUSSYのリブランディングではクリエイティブメンバーを一新し本部からの関与を控えた。いずれも変化しつつある市場環境を機会として見なしていた。また,それぞれにおいて,現地化と標準化をめぐるやりとり,自らが実現したいアイディアと既存ブランドとの擦り合わせ,海外展開の経験を国内展開へ活かすことなどを通じてブランド・アイデンティティが再構築・共有されていった32)。
さらに,ある特定の人物や集団において再構築されたブランド・アイデンティティを通じて,新たな組織と既存の別組織との間には緩やかなつながりが生まれ,既存組織においてアイデンティティが幅広く共有されていく。例えば,MOUSSYの海外展開でいえば,頻繁に現地を訪れていた村井氏や,ストーリーテラーとして現地組織とのパイプ役を担った駐在社員らは,ノウハウ,ブランド・コンセプト,ブランドの成り立ちを共有することにとどめていた。そのなかで,何を変え変えるべきではないのかという点についての現場でのやりとりを通じて,「かっこよくてクール」というブランド・コンセプトを踏まえた商品が現地の人自らが着たくて売りたい服として作られる,という理想像としてのブランド・アイデンティティが強化され,国内ではそれが,自分たちが着たい服を作るブランドとして翻訳され定着していった33)。
第3に,そのような別組織や部門の設定は,ブランド・イメージとブランド・アイデンティティとの隔たりを認識し,アイデンティティを再構築した経営者および当該ブランドと関わりのなかった外部の人物からの助言を通じて促される。ファッション以外の業界において長年中国市場に関わる事業経験を重ねてきた村井氏が,前身となる企業を引き受け,MOUSSYの海外展開時における現地法人の立ち上げ,AZUL by moussyの専門チーム,MOUSSYのクリエイティブメンバーの入れ替えを主導してきた。
2008年からは廣瀬氏が,村井氏のアドバイザーとして,またその後も販売部長として迎い入れられた。廣瀬氏は,大手アパレルメーカーで複数のブランドを立ち上げ,役員としてその後もファッション業界で経験を積んでいた。その経験を踏まえて,MOUSSYの中国展開では,現地法人の設立と現場での販売組織の構築・運営において現場でも指導することになる。AZUL by moussyを立ち上げる際には,既存の社員ではMOUSSYらしさに捕らわれすぎてしまうため,メンバーを外からすべて連れてくるという方向性を村井氏と練り上げていった。こうした相互作用は,会議といった公式の場だけでなく,食事会といった非公式的な場においても生じていた。このような国内外の一連のプロセスにおいて村井氏は,社員よりもはやく市場環境の変化に危機感を抱き,されにそれがブランドを飛躍させる上での機会として認識が生まれていったわけである。
それでは,ブランド・アイデンティティの再構築はどのように促されるのであろうか。本事例から明らかにされたのは,ブランドの原点に立ち返りそれを現在直面している状況に合わせて解釈することである34)。この創造的原点回帰は二つの段階を経る。まずは市場環境やその変化を機会として,またブランド・イメージとブランド・アイデンティティとの隔たりを認識した個人によって行われ,その後に再解釈されたブランド・アイデンティティが企業内部で共有されたり,他者との相互作用を通じてより明確に認識されていくというプロセスをたどる。
MOUSSYの海外展開,AZUL by moussyの立ち上げ,MOUSSYのリブランディング,それら3つにおいて村井氏は,本国と海外市場との差異を含めて,変化しつつある市場環境を機会として認識しながら,ブランドの原点に立ち戻りそれを現状と突き合わせてブランド・アイデンティティを新たに構築していた。ギャル文化の創造ではなく,自分たちが着たい服を自分たちが作る,時代のトレンドをセットするブランドとして立ち上がったのだという創造的原点回帰が実現できたのは,村井氏がファッション業界の外でキャリアを積みブランドの原点を精査したことも大きいと思われるが,村井氏のリーダーシップのみならず,意図せざる結果として,市場環境を機会と見なす別組織の設定と両者の相互作用によっても強化されていた35)。
本論文の理論的貢献は2つある。今後の研究課題とあわせて検討する。
第1の貢献は,組織慣性の研究に対するものであり,市場環境の変化に対応した組織活動が阻まれてしまう要因として,ブランドにまつわる資源に対する当事者の認識およびそれらと市場環境に対する認識との関係性を明らかにしたことである。組織研究やイノベーション研究では,慣性が緩和される条件として,市場環境の変化に対して機会の認識が生じること,そうした認識をもつ独立した組織や部門の設定,外部主体からの影響が指摘されてきた(Christensen & Raynor, 2003;Gilbert, 2005, 2006)。また,知の探索と活用という両立が難しい2つの活動の実現のために,両者を構造的に切り離しながらも,価値観やリスク負担など緩やかなつながりを保持することなどが明らかにされてきた(Andriopoulos & Lewis, 2009;He & Wong, 2004;Lubatkin, Simsek, Ling, & Veiga, 2006)。
本論文で明らかにされたのは,既存研究の知見と同様に,脅威の認識が生じた場合にブランド・マネジメントに関わる組織能力が変革を阻んでしまう一方で,機会の認識が生じた場合にはそれが緩和されうることである。しかしながら,慣性の緩和は,変化する市場環境に対して機会の認識が生じるだけでは不十分であり,市場で定着したと考えるブランド・イメージと企業内部で共有されたブランド・アイデンティティを同一視している場合,変化に対応した革新活動が阻まれてしまうことがある。
今後の研究課題としては,分析対象を拡張する際に,慣性が生じた複数事例を選択した上で,慣性間の相違に着目しながら,慣性の強化と緩和の条件を明らかにすることである。具体的には,革新活動を阻む要因として,外からの力としての市場環境の変化に対する認識のタイプのみならず,製品や企業ブランドのアイデンティティとブランド・イメージに対する当事者の認識について比較検討することである。その際に,創造的原点回帰が促される要因やブランド・アイデンティティの再構築を促す他の要因,さらには特定個人や組織全体といった分析レベルにも目配りする必要がある。
第2の貢献は,ブランド研究およびマーケティング研究に対するものであり,当事者の認識を考慮に入れた慣性という概念を導入することで,複数の革新活動が促されるメカニズムを明らかにしたことである。マーケティング資源が当該企業にもたらす負の影響に着目した実証研究において焦点が合わせられてきたのは組織能力であり(Atuahene-Gima, 2005;Hansen et al., 2013),ブランドに対する知識としての資源が足かせとなって革新が阻まれてしまう組織プロセスについては見過ごされてきた(Beverland et al., 2015;小林・高嶋,2005)。
本論文では,環境と資源に対する当事者の認識の相違に着目し,同一企業内で生じたブランド・マネジメントに関する慣性間の相互影響関係を明らかにした。具体的には,企業内部でブランド・アイデンティティが強固に共有されているが故にブランドの革新が阻まれてしまうという内なる論理によって生まれた慣性が,海外展開における現地化と標準化の相互作用を通じても緩和されうることを示した。ブランド・マネジメントの慣性には,当該ブランドのイメージが市場において浸透しているために,企業がそれを変えたいと思わない,あるいは,変えたくても変えられないという外なる論理によって生じた慣性が存在している場合がある(久保田・大竹,2016;大竹,2017)。
村井氏がそうであったように,トラベリング・エグゼクティブが,本社との現地子会社の関係を構築するためのチームの形成に関わったり,現地スタッフが抱く地域バイアスを解消したりする役割だけでなく(Aaker & Joachimsthaler, 2000;Bebenroth・今井,2011;Welch, Welch, & Worm, 2007),現地でのやりとりを通じて再構築されたブランド・アイデンティティを本国市場に活用していくという役割を果たしうる36)。本事例では,現地の人たち自身が着たくて売りたい服として作られるというMOUSSYのブランド・アイデンティティの再構築が,海外展開のなかで行われ,それが本国でのリブランディングにつながっていく要因となっていた37)。
海外展開に関しては,進出先市場においてブランド・イメージが本国市場に比べて定着されていない場合,外なる論理によって生じる慣性が弱く,また,現地化・標準化のやりとりを通じて,ブランド・アイデンティティが再構築されうる。異なる市場への対応という意味での既存ブランドの海外展開は,創造的原点回帰を通じたブランド・アイデンティティの再構築を促し,内なる論理によって生じた複数の慣性を緩和し,企業成長に寄与する可能性がある。これが事例分析から得られた,慣性間の相互影響関係に関する新たな仮説である。
今後も,既存ブランドの海外展開を契機とした慣性の緩和のみならず,同一企業内で生じた複数の慣性の相互影響関係について事例研究を積み重ねていく必要がある。その際に,慣性が打破されても企業成長が阻まれてしまった事例との比較分析などを行うことで,慣性の強化と緩和の条件についても,外的妥当性の高い理論的知見を得ていくことが求められる。
本論文は,科学研究費助成の基盤研究B(課題番号:25301035)および若手研究B(課題番号:17K18167)の支援を受けた研究の一部です。本研究を進める上で株式会社バロックジャパンリミテッド様からご協力をいただきました。また,アリアエディターとレビューアーの先生からは,今後の研究にもつながる大変有益なご指摘をいただきました。ここに記して心から感謝申し上げます。