抄録
聖書では「天使」と呼ばれる,非物体的で高度の知的活動を営む精神的な存在を対象とする,形而上学の一分野である(哲学的)天使学は,今日,思想史において「天使」が占める重要な位置を強調する一部の論者を別にすれば,学問の領域から完全に排除されているだけでなく,知的関心を呼び起こすこともほとんどない。しかし私は,「精神と身体との複合体である人間を人間たらしめる形相(本質)は精神(知的霊魂)である」という命題が何らかの意味をもつものであるかぎり,そこで「精神」と呼ばれている存在について,すくなくとも目に見える自然界の諸々の事物や現象に対するのと同等の知的関心を向け,それに関する確実で根拠のある知識に到達しようと努めることは,「本性的に知ることを欲する」人間として無視することのできない知的課題であると考える。そして,この課題と有効に取り組むためには,身体(物体)と結びつかないという単純性のゆえに,人間の精神よりもより高次の精神的な存在である天使を対象とする天使学が,比較研究の見地から言って重要な役割を果たすことが期待される。
しかし,天使学の研究に現実に着手する者は不可避的に大きな困難に直面する。それは現代のわれわれにとって目に見えない世界があまりに縁遠いものとなり果てたため,その存在について意味のある仕方で語るための言語と文法を喪失したことに由来する困難である。われわれにとって「存在(ある)」とは「知覚される」と等価であるか,何事かを「定立する」だけの「存在(ある)」にとどまり,存在論もいっさいの「何かである」を消去した後の空虚な一般概念としての「存在(ある)」で行き詰まっている。目には見えないが確かに現実に存在する精神について適切に語り,理解することを可能にする存在論が必要なのである。私はこの論文で「天使は現実に存在するか」という単純な問いを徹底的に問うことを通じて,そのような存在論の可能性を示そうと試みた。