日本重症心身障害学会誌
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特別講演2
3.11を経験して
−普段から大切にしておきたいつながりと備え−
田中 総一郎
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2013 年 38 巻 1 号 p. 11-18

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抄録

Ⅰ.大津波から逃げ遅れた障害児者 東日本震災では、全国で死者・行方不明者あわせて18,574人の方が犠牲になった(2013年2月13日警察庁発表)。災害関連死の2,303人(2012年9月復興庁発表)を合わせると2万人を越える。一般に、巨大地震では早期から外傷と挫滅症候群が重症の多くを占めるとされ、1995年1月に起きた阪神淡路大震災でも外傷と挫滅症候群で44.5%に達した。しかし、今回の東日本大震災の死因は、溺死が90.5%に及んだ。その他は圧死4.5%、焼死1%であるが、それらの多くも津波が原因した。石巻市が所有する17台の救急車のうち12台は戻って来なかったというほど、津波は医療現場にも大きな被害をもたらした。 東北3県の31沿岸自治体を対象とした調査では、被害者数の割合が一般の0.8%に対して、障害者手帳所持者は1.5%と約2倍に上った(河北新報社、2012年9月24日付)。この数字は、障害児者を津波被害から守る方策が機能しなかったことを物語る。厚生労働省は、2005年に「災害時要援護者避難支援計画」を策定するように各市町村に求めた。要援護者とは、高齢者・障害者で災害が発生したときに、自力や家族の支援だけでは避難することができない方で、地域による支援を希望する方と定義されている。しかし、東北三県沿岸部の35市町村のうち、誰がどの要援護者を支援するかという個別計画まで立てていたのは、この震災当時は6市のみで、しかもほとんどは実際に役立たなかった。 石巻市に住む高校2年生のKくんも犠牲になった1人である。難治性のてんかんから寝たきりとなり、在宅人工呼吸器と酸素療法を受けながら支援学校へ通っていた。当時、彼は海岸から500mほどの自宅にいたが、押し寄せる津波が平屋建ての自宅を襲い、ベッド近くの高さまで浸水した。人工呼吸器、在宅酸素、吸引器は機能を失い、気管切開孔には泥水が侵入した。Kくんは体重42kg身長155cmの体格であり、人工呼吸器と酸素吸入器を一緒に持って避難するためには、本人を抱っこする2人と、医療機器を運ぶ1人の合わせて最低でもおとな3人の援助が必要になる。避難するときに助けが必要な障害のある方を、いつだれがどのように援助するのかを決めておく必要がある。これはご家族だけでできることではない。町内会の助けや行政の仕組みを作り上げることが求められる。 今回の大震災で私たちが痛感したのは、災害時の備えやマニュアルを福祉目線で見直さなければならないことである。そして、助かった人たちの声を聴くと、一番頼りになったのは支援する側もされる側も普段からつながっている人たちであった。障害児者が、普段から身近な存在として社会にあること、子どもたちを中心にして私たち支援者が普段からつながっていることが、大きな力を発揮する。 震災当日からの記憶をたどりながら、重症心身障害児(以下、重症児)がいかに生きぬいたか、災害時の重症児支援について各分野の課題を今後への提言としてまとめた。  Ⅱ. 最初の支援―安否確認とニーズの聞き取り1) 生命が助かった方も、生活が大変であった。命綱である人工呼吸器、在宅酸素、吸引器の電源の確保ができない、経管栄養剤や抗てんかん薬などの医薬品を流失したという医療面での大変さと、寒さと低体温、慣れない避難所や親戚宅での精神的ストレス、水や食料の配給に並べない生活面での大変さがあり、医療面と生活面の両方からの支援が必要であった。 3月11日の震災後、患者さんとの連絡が取れなくなり、被災地の重症児は無事でいるのか、どんなことで困っているのか情報がつかめなかった。3月14日、テレビやラジオを通して外来患者さんへ医薬品対応の情報などを流した。拓桃医療療育センターのある秋保地区は、3月16日にやっと電話がつながるようになった。内服薬や衛生材料が不足する心配があったので、外来受診の予約表を見ながら11日以降の予約の患者さんから順に電話をかけた。院外薬局での対応や物品の節約やリユースの方法を伝えたが、どうしても困っているご家庭には直接届けた。 在宅人工呼吸器と酸素療法の患者さんには医療機器業者がいち早く連絡を取り安否確認をしてくれた。在宅人工呼吸器の患者さんの多くは医療機関へ入院していた。 津波被害の大きかった沿岸部のご家庭には、固定電話ではなく携帯電話の情報が役立った。普段から外来担当看護師が一人ひとり丁寧に聞き取っていたことが効を奏した。今回の震災においては、固定電話よりは携帯電話、携帯メールやWebメール、さらにIP電話やSNS(ツイッター、FaceBook、ミクシーなど)などがよくつながったと聞く。お母さんたちの携帯メールによる連絡網も大きな役割を果たした。 沿岸部でも臨時の発電機が設置され携帯電話の基地局が復旧し始めた3月19日、石巻のIさんと連絡がとれた。Iさんは石巻市立湊中学校2年生で気管切開と胃瘻のある重症児だが、地域で暮らしたいという願いから地元の小中学校(普通学級に在籍)で学んできた。Iさん一家は母校でもある湊小学校の避難所に同じ町内会の方々と一緒にいた。「避難所には救援物資が届きはじめていますが、そのおむつは高齢者か赤ちゃん向けのものばかりで、障害児が良く使う中間のサイズ(体重15-35kg用) がありません。」おむつは「大は小を兼ねる」わけにはいかない。また、避難所では歯ブラシやおねしょパッドが必要と聞いた。歯ブラシなどの不足は、1000人以上も収容された避難所の衛生面が整っていなかったため、また、おねしょパッドのニーズは、避難所でせっかく用意されたきれいなお布団に、普段は失禁をしないお年寄りや子どもたちが慣れない避難所生活でおねしょをしてしまうからである。現場のニーズを直接伺えたおかげでわかった情報であった。 災害弱者である障害児たちのニーズは優先されることはなく、また、気付かれることもなく、私たちはこれらを拾い集めてきめ細かな支援をする必要を感じた。なぜ、重症児は災害弱者なのだろうか。その生活が知られていないから、ニーズが伝わらないから。それならば、普段ともにいる私たちが代弁していかなければならない。 Ⅲ.救援物資の要請 3月20日、医療系(蔵王セミナー:日本小児神経学会の有志による情報交換を目的とした会)と福祉系(医療的ケアネット:医療的ケアを推進する保健・医療・教育・福祉のメンバーによるネットワーク)のメーリングリストを通じて支援をお願いした。このメールに対する反応はすばやく、翌日1日だけでも40件もの援助申し入れのメールをいただいた。 物資を送ってくださったのは、医療では全国の療育センターや歯科医院、教育では特別支援学校の先生方やPTA会、企業では歯ブラシ製造販売企業など、福祉では各地域の福祉施設、たくさんのご家族で、合わせて77カ所であった。おむつは400袋以上、歯ブラシも3000本以上、おねしょパッド、タオル、下着、防寒服、マスク、食糧などを送っていただいた。医療機関や福祉施設の買い置きのおむつを分けていただいたところ、お子さんのおむつを分けてくださったご家族もいらっしゃった。阪神淡路大震災を経験された方は、おしり拭き、手袋、マスク、手指消毒用アルコールなどを送ってくださった。また、医療的ケアをされているご家族からは、経管栄養のイルリガートルや注射器、胃瘻の接続用コネクター、経腸栄養剤などの医療品を送っていただいた。メーリングリストでは、送るときの注意事項として「段ボール箱には内容、サイズと数量をマジックで明記する」など支援に役立つ情報を発信してくださる方もいた。いかに普段から障害のある子どもたちの生活を真剣に考えているかが伝わってきた。 たくさんの支援への感謝とともにその反応の早さと大きさに正直驚いた。皆さんがおっしゃるには、「テレビなどで震災被害の様子を見ながら何か援助したくてもその方法が分からなかった。」具体的な支援方法(いつ何をどこへどんなふうに)を発信するコーディネーター役が重要であると気付かされた。 Ⅳ.救援物資の流れ 全国から宮城県への物資の流れは次のようにした。はじめは仙台まで宅配便が届かない状況であったので、全国から医療機器会社東京本社あてに送っていただき、そこから緊急車両扱いで東北自動車道を通って仙台へ輸送した。仙台から各被災地へは、大学教員、医療機器会社スタッフ、そして、ご家族にもボランティアで運搬していただいた。 3月22日からは各宅配便の仙台営業所まで配達ができるようになり、メーリングリストに「仙台営業所止め」と郵送先の変更をお願いした。刻一刻と変化する状況を的確に支援者の方々へ伝えるには、インターネットの力がとても大きかった。 物資は3月24日から4月20日までの間に被災地に直接届けることができた。支援学校12校、沿岸部の市町村福祉課10カ所、避難所や福祉団体7カ所、患者さんのご自宅14カ所の合計43カ所である。4月下旬から、各市町村で「日常生活用具」としておむつの供給が始まり、物資の援助は一段落となった。 (以降はPDFを参照ください)

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