抄録
Ⅰ.はじめに
第29回日本重症心身障害学会(2003年:横浜)におけるシンポジウム「よりよく豊かに生きるために」-ライフステージから重症心身障害児(者)の生活の質を考える-において著者は、「重症心身障害者のグループホーム 終の住処としてのあり方」という内容で指定発言をさせていただいた1)。2003年は厚生労働省における特別支援校での医療的ケア(医ケア)がモデル事業化され、在宅のALS患者に対するヘルパーなどによる痰の吸引が認められた年である。以後約10年間、重症心身障害児(者)(重症児(者))の社会生活は大きく外へと変化したといえる。2012年から非医療職による医ケアが解禁になったことは重症児(者)の生活をさらに大きく変えてゆくであろうと予想される。朋診療所の母体である社会福祉法人「訪問の家」が重症者グループホーム第1号を作ったのは1994年であるが、現在は11カ所のケアホーム(自立支援法下でケアホームと位置付けられた)に増えた。本稿では、これまで直面した問題点を医師の立場から経時的に検討し、今後増えることが予想される重症者のケアホームの生活での留意点は何か、大切にしなければならない生活の土台は何か、さらに成人した重症者が一市民として地域で生きる上で必要となる課題は何か等につき検討する。
Ⅱ.ハード面での変化
第1号グル―プホーム(図1)は、古い2階建ての日本家屋を借り受け、様々な工夫を加え全介助の重症者が生活できるように整えたものであった。当時の日本家屋では玄関にかなり高い段差のあるたたきがあり、狭い廊下、急な階段のつくりであった。たたきには段差解消機を入れ、押入れを利用してストレーターという業務用の資材などを上げ下げするエレベーターを入れた。これにより、外からの車いすの出入り、2階への移動が可能となった。ネット式のリフトは風呂場、車いすへの移乗に使われた。当時、リフトはまだ一般的に普及しておらず、荷物を上げるようでいやだという印象が重症者とその家族、介護スタッフにあったようだったが、自分の意思をある程度伝えることのできる入居者から、「リフトを使用した方がかえって安定する、また介助者に負担がかかるという気持ちを持たずにいられる」との指摘を受け、抵抗感なくリフト使用ができるようになった。部屋は個室であり、入居者の障害特性と好みに合わせて、フローリングにベッドであったり、たたみに布団であったりと様々であった。
その後、地元の地主さんからケアホームとして建築されたものを借り受けるようになり、徐々に設計の段階からケアホーム統括職員が参加できるようになっていった。新しいケアホーム(図2)はバリアフリー、エレベーター完備、広いリビングダイニングのシステムキッチンには食洗器もついていて、床暖房完備。おしゃれなつくりにも工夫があり、ステンドグラス、天井に換気扇などの遊びもみられる。広い敷地のケアホームでは、体験入所ができる部屋が二部屋用意されている。庭では季節の野菜などの栽培もできる。このように徐々に地域からケアホームとしての住居の提供があったのは、非常に幸せなことであるが、まず何よりも入居者自身が大変楽しく生活を送っているという事実、地域住民とのふれあいを大事にするという理念を母体である社会福祉法人「訪問の家」がしっかりもっており、各職員が入居者とともにそれを実行していることが大きな推進力になったと考えている。表1にグループホーム・ケアホームの歴史を示す。栄区は重症者通所施設“朋”、大型活動ホーム“径”の通所者、磯子地区は知的障害と重複障害者の通所施設“集”の通所者が入居している。
Ⅲ.入居者のプロフィール
図3に11カ所の入居者の障害特性と基礎疾患、重複障害の入居者の年代区分を示す。両親の高齢化に伴い、入居者の高齢化がめだつが、これは重症者の医療が発達し、地域で長年家族とともに暮らすことが可能になったこと、重症者の平均寿命がのびていることを反映している。図4に25名の重複障害と2名の医療的ケア(医ケア)を要する知的障害者2名の大島の分類を示す。第1号グループホームには知的レベルがやや高い重複障害が含まれていたが、1994年当時、重症者のグループホームは他に例がなく、入居者の中に、少しでも自分の意思を告げることができる障害者がいたことは、その後のケアホームの生活介護のあり方に大きな役割を果たしたといえる。その後のケアホームには、コミュニケーションをとることが困難な方が多くなり、快不快の表情やちょっとした笑顔や表情、しぐさなどで本人の身体的な疲れや不調、精神面を受けとめることが必要であった。そのためには、ケアホーム職員が家族やデイの職員との日常的なコミュニケーションをとること、身体面も絡む場合には、ちょっとしたことでも診療所に相談にくること、そしてその情報を関連職員全員が共有することが大事であると思われた。
Ⅳ.健康管理と医ケア
グループホーム第1号の入居者は医ケアのない人が対象であった。しかしながら入居後感染症などをきっかけに様々な医ケアが必要になった2)。医ケア内容を以下に示す。
① 吸引…口腔、鼻腔、気管カニューレ内、中咽頭まで、気管内
② 薬液吸入…インタール、吸入ステロイド、 気管支拡張剤
③ 経管栄養…経鼻経管栄養、胃瘻
④ 不定期な導尿
2003年、グループホーム第1号の入居者が肺炎に罹患、気管切開と経鼻経管栄養の医ケアが必要な状態で退院された。気管切開は当時重症者でも一般的ではなく、相談にみえた母親は、グループホームでの生活に戻れないならば、気管切開を受けずにこのまま看取りたいと思いつめておられた。相談を受けたとき、医ケアを医療職のいないグループホームでどのようにするか、著者はまだはっきりとした方針は立てられなかった。そこでとりあえず命を助けることを優先しましょうと話した。本稿冒頭で述べたように、2003年は筋萎縮性側索硬化症の患者に対して、ヘルパーによる気管内吸引が認められた年であり、特別支援校における医ケアも全国レベルで進んだ年であった。これを追い風に看護師の協力、地域総合病院との連携、重症児(者)施設の協力によりグループホームでの生活を再開した。非医療職による医ケアの施行をバックアップする医療的環境は整ったが、退院当初はまだ状態が不安定であり、医療職不在のグループホームでの医ケアの責任体制のためにはじめは母親に別室で宿泊していただいた。このように重症児(者)では突然重い医ケアが必要になることがあり、介護職による医ケアが解禁になった今後はすみやかに医ケアが実施できるよう、関連医療スタッフ、行政の迅速な対応、地域医療機関との具体的な連携が必要であると考える。
今年、44歳のLennox症候群の女性が新しくケアホームに入居された。ADLは数歩補助歩行が可能であるが、重度知的障害がありコミュニケーションはとれない方である。33歳時肺炎に罹患、広範な無気肺を合併し気管切開し、退院当初は夜間と疲労時に呼吸器が必要であった。37歳で喉頭気管分離術を施行、以後呼吸は安定し呼吸器は不要となった。経管栄養に加えて経口的な食事を無理ない範囲でとっていたが、ケアホーム入居を希望し、43歳で胃瘻造設術を受けた。また本例では気管内肉芽ができやすく、肉芽除去のため耳鼻科に入院した既往があった。喉頭気管分離術後は気管カニューレが不要となり、肉芽の心配、カニューレ抜去の問題はなくなった。しかし気管からの痰の吸引には細心の注意が必要であり、厚労省の方針に沿うよう、以下のように行うことにした。①基本的に気管外の吸引とすること ②そのために喀出した痰を気管外部で吸引あるいはティッシュでぬぐうこと ③気管孔から痰が見え隠れしているときは、気管内膜に触れないように注意しながら痰の先端に吸引チューブを当てて気管外に吸引しながら引き出し、気管外でしっかり吸引するか、ティッシュでぬぐうこと、ただし気管内1cm程度の範囲の痰に限ること ④痰を気管孔まで移動させるために必要に応じて体位ドレナージを行うこと。この女性の初めてのケアホーム体験入所(医療職不在)は日中活動の場で看護師の指導のもとに気切部吸引を行ったベテラン職員が行った。この第1歩には大きな意味があったと考えている。表2にケアホームで行っている医ケア内容と人数を示す。
Ⅴ.安全に暮らす工夫と看護師との連携
重症者の地域生活は、多くのスタッフによって作られる。医ケアが必要な場合でも、看護師が関わる時間は非常に限られており、医療職不在の中で医ケアを行うことになる。重症者は不都合があっても自分の身体の状況を伝えることができない。どんなときに痰の吸引をしたらよいかなどのタイミングも慣れないと難しい。そこで個々のマニュアルを作成し、生活に必要なことはすべて書き込み、忙しい介護の中でみやすいようイラスト、写真を使うなどの工夫をした。これらはケアホームスタッフだけでなく、デイの職員、看護師なども関わった。また医師からの指示はすべてメモあるいは連絡ノートに書くなど文書化し、受診に付き添った職員でなくてもはっきり指示がわかるように工夫した。てんかん発作や呼吸に問題がある入居者に対しては、ベビーモニターを設置、より観察が必要な場合は職員が近くに寄り添い対応している。
(以降はPDFを参照ください)