日本重症心身障害学会誌
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特別企画:追悼シンポジウム「有馬正高先生の足跡と重症心身障害児者医療」
有馬正高先生の軌跡
−小児科学から小児神経学そして障害児者医学・医療の66年−
加我 牧子
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2024 年 49 巻 1 号 p. 99-105

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抄録
Ⅰ.はじめに 第三代日本重症心身障害学会理事長として1990年以来2018年までの28年間にわたり重症心身障害児・者医学医療福祉にご貢献著しかった有馬正高先生が2022年12月12日、逝去された。享年93歳。肺炎から回復され、退院寸前に急変されたものの安らかなご最期だったという。 2023年10月26日第48回日本重症心身障害学会学術集会(石井光子会長)で、追悼記念シンポジウム「有馬正高先生の足跡と重症心身障害児者医療」が開催され、光栄にも筆者は有馬先生のご生涯を時の流れとともに振り返る機会と、学会誌への寄稿のご指示をいただいた。 有馬先生(1929-2022)は日本の小児神経学の礎を築き、固め、今日の小児神経学を切り開き、牽引し、開花させた巨人であると同時に、日本の障害児医学、特に知的障害、重症心身障害医学・医療の領域を切り開き、開花させ、世界に例を見ない高レベルの医学と医療の実現に多大なご貢献をなさった。 Ⅱ.生い立ち 先生は帝国海軍有馬正文中将と、ご令室文子様のご次男として鹿児島県伊集院でお生まれになった。兄正宏様、姉百合子様、弟孝禮様の4人きょうだいである。戦前は抗結核薬がなく、罹患、即、死を覚悟すべき病であり、兄上は結核性腹膜炎のため14歳でご逝去、当然のことながら我が子をなくされたご両親の嘆きは深く、先生のお言葉では「うちの親も1−2年はめそめそしてましたね」とのことで、子ども心に子どもは親より先に死んではいけないということが強く心に刻まれた。先生ご自身は当時小学2年生で、やはり結核性肋膜炎に罹患されたが、幸運なことに生還された。 Ⅲ.少年期 青年期 父上の仕事の関係で転居、転校が多く小学校は5校、中学校は2校を経験された。肋膜炎で長く学校を休んだため勉強がわからなくなり、泣いて悔しがったことから転校して1年落第し、2年生に編入したとのことである。小学校卒業後、県立湘南中学校(現 湘南高校)に進学された。当時の中学校は5年制で、成績優秀者は4年生から上級学校への進学、すなわち旧制高等学校受験も可能であった。湘南中学校の生徒は海軍軍人の子弟が多く、父を戦死で失っていた生徒も多く、先生御自身も1944年10月に父上を戦死で亡くされていた。1945年、海軍兵学校予科が従来より2年早く受験資格を与えた。4年終了で先生も受験され、海軍兵学校に合格した。同期生は4032名。1945年春入学、8月15日終戦。聞き取りにくい玉音放送は集団赤痢のため兵学校予科のバラックの病床でお聞きになったとのことである。数日後兵学校は解散、山口県防府針生島からご実家の鹿児島に帰郷された。帰郷後、県立第二中学校に編入、旧制第七高等学校に入学を果たし、医師となることを志して東京大学医学部をめざし受験勉強に励むことになった。 戦後は、家族に給費されていたご遺族への恩給が停止され、母上は大家族の生活を支えるのが大変な中、先生ご自身も闇市で魚を売るなど家計を助けるなども一仕事であった。 先生は「自分の人生、座学で一番勉強したのは大学受験生の時代でした」と回顧しておられるが、東京大学医学部に合格し、鹿児島県の学生寮、同学舎に入寮、学生生活を送り(図1)、1953年に卒業後は東京大学医学部附属病院で1年間のインターンを経て1954年春東京大学医学部附属病院小児科に入局された。 Ⅳ.東京大学医学部附属病院小児科時代(図2) 入局直後、小脳腫瘍による水頭症児と、脳性麻痺児の二人の神経疾患の主治医となったが、二人とも急激に病状が悪化して亡くなり、それぞれの母親の深い悲しみに直面し、「子どもは親より先に死んではいけない」、との思いを新たにされた。この年、小児科学教室に高津忠夫教授が就任され、「子どもの病気は小児科医が診る」ことを徹底させるべく、分野別専門制度をめざされた。特に、てんかんは精神科でなく、小児科で診るべきであるとして、高津先生は入局2年目の福山幸夫先生に責任者を命じた。福山先生は小児科に入局直後の有馬先生、長畑正道先生、他大学から入局された横田和子先生ら数名と共に、後に「東大神経班」とよばれるようになったグループが誕生した。「てんかんを診る」といっても病気も治療法も、ほとんどゼロから勉強することになり、数か月間、グループで猛勉強を重ね「けいれん」外来を開設した。当時、てんかんに対する偏見は今日の比ではなく、てんかんではなく、けいれん、すなわちドイツ語のKrampfの名称が用いられ、K外来と呼びならわされた。 当時、東大に脳波計は精神科に1台あるのみで、精神科の患者さんの検査終了後の夜間、自分たちで患者さんの検査をすることになった。 当時使用できる抗てんかん薬はアレビアチン、フェノバール、ミノアレビアチンの3剤にほぼ限られていたが、8割以上に有効で、親御さんに感謝された。他にはこのような場がなかったこともあり、大変な数の患者さんの診療が行われた。K外来専用のカルテを作り、外来診療がすべて終わってから、スタッフ一同で勉強会、症例検討会が夜遅くまで行われた。K外来の診療を続けるうち、発作はおさまったものの、麻痺や運動機能の障害を伴う病態が認識され、精神運動機能が退行するなどの子どもたちが目立つようになり「脳性麻痺外来」として診療の幅が拡大された。この二つの外来の中から福山型筋ジストロフィーやTay Sachs病など代謝性変性疾患が次々と見いだされていった。K外来、脳性麻痺外来は後に日本の小児神経学を牽引する場の一つとなった。 一方この時代は小児科学全体の発展にとって途方もない変革期であった。まずは抗生物質が臨床に導入され、かつて死病であった結核を始め多くの感染症が死なない病気へと劇的な転換を遂げ、静脈輸液療法の導入により、下痢・脱水で死ぬ子どもが激減した。さらにDown症候群が染色体異常による疾患であることが確立し、病因や疾患概念の根本的変革が行われた。先天性代謝異常症が酵素欠損や、酵素量低下に起因するものであることも発見され、診断方法が確立していった。これらの疾患は後に遺伝子治療をみすえた遺伝子診断が行われるようになる。ともかくも大変な数の小児神経疾患の患者さんが東大小児科K外来、脳性麻痺外来を受診されたことになる。有馬先生は東大医局在籍中にてんかん、脳性麻痺などに関する多数かつ緻密な論文を日本語、英語で上梓され、当時日本のトップジャーナル「神経研究の進歩」に掲載されたてんかんについての研究で学位を取得された。また多数のWilson病の患者さんに出会い、ペニシラミンによる発症前治療で疾患のコントロールができることを証明された。後に新たな治療薬トリエンチンを薬として開発し現在に至るまで多くの患者さんに感謝されており、先生が初めて記載された「有馬症候群」と共に、Wilson病は先生のライフワークそのものである疾患になった。 入局初期にアメリカ航路の船医として初めての海外の経験をなさり、自衛隊病院への派遣を含めた医局在籍中、講師・病棟医長を経験されたことは先生の臨床能力がさらに鍛えぬかれる機会ともなり、東邦大学助教授として転出された。 Ⅴ.東邦大学医学部付属病院小児科時代 中山健太郎教授の下で、医師、学生への教育を行い、先生の熱心な姿勢に感動して入局された学生の中に、後に東邦大学医学部小児科教授、さらに東邦大学学長をつとめられた青木継捻先生がおられ、青木先生がこの時代を中心に詳しく記述してくださる。あえて追加させていただくエピソードは都立府中療育センター新設の際に非常勤医長として大学と併任なさったことである(図3)。10年前に先生が東大で診療していらした多数の患者さんが、やせ衰え、弱りはてて外来を受診され、しかも入所直後に死去される方が多数あったことに衝撃を受けたことが後の障害児医学医療への道への大きなきっかけとなったようである。 さらに関連病院の東京小児療育病院に土曜、日曜に医局員や学生を連れて診察に訪れ、教育と障害児への理解と思いを深められたという意味でも東邦大学は有馬先生にとって大変重要な場であった。 Ⅵ.鳥取大学医学部脳幹研究施設教授、付属病院脳小児神経科長・教授の時代 鳥取大学に日本で初めての小児神経科の講座ができ、高津教授の強いお勧めにより、教授職公募にこたえ、選出されて、新設の講座を創り上げるミッションを負うことになった。このため無から大きな「有」を作り出す大作業をなさり、将来の小児神経科医を育てるための教育に力を注がれた。また医局員とともに県内・県外の病院のほか、重症心身障害病棟を含む療育施設を訪問し、将来の医療、教育、研究のための布石を打たれた。学問的な意味での小児神経学だけではなく、神経疾患に随伴する、あるいは結果として生じる子どもの障害、大人に至るまで随伴する症状と、社会的課題についての視点を持っていらした。有馬先生は正解を教えることはなく、医局員は各自が自分で勉強し、考えて患者さんに対応するために猛勉強をすることになった。当初から将来の日本の小児神経学、障害児医学を担う医師を育てるという決意がおありだったことは、この時代に薫陶を受けた先生方がいまも全国で日本の小児神経学、障害児(者)医療を支えてくださっていることからも推察される。 (以降はPDFを参照ください)
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