抄録
一九七一年にハーバマースとルーマンの間でたたかわされた論争で両者は、 (1) 意味が社会学の根本概念であること、および (2) 意味概念にはすでに諸主体の非同一性が含意されていること、この二点を共通の出発点としていた。ここから生じてくる問題は、 (a) 意味が常にすでに非同一的諸主体を前提とするとしたうえで、なおかつ意味を根元的に (すなわち、すでに有意味な何ものかをあらかじめすべり込ませておくことなにし) 把握することができるかということ、また (b) そのような意味概念をもとに、有意味な行為の構成、さらに行為が織りなす世界の布置の形成はどのように考えることができるかということ、これである。
本稿は、まず最初に単独「主体」による意味の決定が不可能であることを証明し、次いでこれに基づいて、ハーバマースとルーマンの各論点を整理する。そのなかで (a) 行為が常に実践として公的におこなわれること、および (b) 有意味な世界は行為が連鎖することのうちで成立することを指摘し、そこから、 (i) 両者がそれぞれ強調する妥当性要求の普遍性 (ハーバマース) と規定された世界の布置の特殊性 (ルーマン) とが同値であること、さらに (ii) この同値性に注目することによってのみ行為および行為者の把握が可能となることを示す。