本論文は,排除の一形態としての差別に焦点を当て,植民地期朝鮮における朝鮮人と日本人との差異に関する知識の産出過程を分析の対象とする.差別が排除を伴うことは先行研究から指摘されており,差異が差別の根拠ではないことも指摘される一方で,差異と差別との関係は十分に記述されてきたとは言いがたい.そのため,本論文では差別と差異との関係を,日本の植民地支配期における朝鮮人と日本人との差異に関する知識を生み出した条件とその知識の用いられ方から論じることを試みた.朝鮮人を身体的・文化的に日本人と異なるものとして識別する知識は,植民地朝鮮における政策を実行するために必要とされた慣習の調査や,日本人の民族的起源を明らかにしようとする人類学的試みの中から生まれてきた.また日本へ移住した朝鮮人労働者は,民族差別のために劣悪な環境で労働せざるをえなかったが,大正期に発展した社会行政は朝鮮人コミュニティを行政が対策を打つべき問題とみなした.他方で,朝鮮人と日本人との差異が常に明らかでないことや,朝鮮人が日本人に類似しつつあることもしばしば感じられていたが,そのような場合には,植民地支配の正当化や標識の維持,あるいは危険とみなされた他のカテゴリーとの同一化によって,日本人と朝鮮人との差異が維持された.
近年,トランスジェンダーとスポーツの関係性に注目が集まっている.特に,トランス女性が女子スポーツに参加することに対する批判が高まり,世界陸連など,いくつかの国際統括組織が実質上のトランス排除を決定している.米国では,2020年以降,学校スポーツにおいてトランスジェンダーの選手を実質排除する法律が次々と成立しており,トランスジェンダーのスポーツ参加をめぐる権利は危機的状況におかれている.しばしば女子スポーツを守ることがトランス排除の理由として挙げられるが,トランス排除のロジックと制度は,スポーツにおける女性差別のロジックと制度を踏襲するものである.本論では,まずスポーツにおけるセックス・コントロールの制度の歴史について確認する.その上で,スポーツにおけるトランス排除の仕組みについて,2020年以降いわゆる「反トランス法」が急速に広がっている米国に着目しながら関連する法律を整理することを通して,現在進行するトランス排除とスポーツにおける女性差別の関係を考察する.最後に,教育の一部として提供される学校スポーツからトランスジェンダーの子供や若者が排除されることの問題性について論じる.
インターセクショナリティは現在,差別をめぐる議論におけるキーワードのひとつとなっている.しかしながらこの言葉が知られるにつれ,インターセクショナリティはジェンダーや人種などの複数のカテゴリーを掛け合わせ,そこに不均衡な差異がみられるかどうか,すなわち交互作用効果によって操作化されるのか,また,カテゴリーにカテゴリーを次々に掛け合わせ,人々の社会的位置をできるだけ細分化して考えることがインターセクショナリティのねらいなのか,といった疑問も生まれているように思われる.本論文では,インターセクショナリティのこれまでの議論にもとづいて,これらの疑問を解きほぐすことを試みた.過去の議論にもとづき本論文では,インターセクショナリティの概念は不利益の程度の差も含め,社会的位置による人々の違いを単に細かに示すためのものではないこと,むしろ,差別の経験をめぐる差別やさまざまな差別の相互依存関係を明らかにしつつ,差別のプロセスや経験に関する「標準」を問い直すためのものであること,そして何よりこの概念は,フェミニズムの概念であることを確認した.
近年,ジェンダー・マイノリティへの配慮として,書類や調査で性別をたずねてはならないとの考えが広がっている.本稿では,ジェンダー統計の作成に不可欠な性別に加え,性自認を調査で捉え,多様で包摂的な統計を作成し,その設問を用いた代表性のある大規模調査を実施して,ジェンダー・マイノリティとそれ以外の人びとの統計的比較を行う必要があるという立場から,性別・性自認の設問の検討過程と議論を整理した.
国際的なジェンダー統計活動ではSOGI(性的指向・性自認)の設問検討が2010年代からみられる.諸外国の周到な検討結果から,ジェンダー・マイノリティの識別のためには,出生時に割り当てられた性別と自認する性別を問う2ステップ方式がよいとされる.実際,複数の国のセンサスでも用いられ,結果が公表されている.日本では筆者らの研究班で検討し,出生時性別,現在の認識がそれと同じか,別の性別もしくは違和感がある場合は今の認識をたずねる3ステップ方式を推奨している.性別・性自認をたずねることはジェンダー・マイノリティの実態を明らかにするために不可欠であるが,クィア方法論は,調査で分類し,数値化することが,性のあり方の固定化・規範化を生む可能性にも正面から向き合うことを求める.今後については政府による性別・性自認の問いの検討とそれを含む調査の実施,学会を挙げての取り組み,社会調査の基本的アプローチを〈性別〉に適用することなどが切望される.
本稿は,合理的配慮(新しい概念)と直接差別(伝統的な概念)との弁別を念頭において構築された従来の差別理論の同一モデル及び差異モデルという鍵概念をもってしては,直接差別と合理的配慮との関係や合理的配慮とアファーマティブ・アクションとの関係を適切に説明しえない,ということを明らかにする.また,本稿は,従来の差別理論に代わる新しい差別理論(私見)のほうがこれらの関係をより適切に説明できる,ということも明らかにする.この新しい差別理論は従来のいくつかの拙稿を踏まえたものである.
新しい差別理論は,実定法上禁止される障害差別をこう理解する.障害差別とは,事柄主義の下で,障害が事柄の非本質部分に該当し,かつ,たとえば適性が事柄の本質部分に該当する場合において,障害者と非障害者とが等しい適性を備えているときに,障害への考慮または非考慮により両者を等しく扱わないことをいう.そして,障害差別禁止法は「健常者(中心)主義」を否定し,「事柄主義」を採用し,「障害者(優遇)主義」からは距離をとる.
合理的配慮義務は,「事柄主義」に基づき「事柄の本質部分」(適性)に関して等しい者を等しく扱えという命令を墨守する点では,直接差別の禁止と同質である.一方,アファーマティブ・アクションの要請は,「障害者主義」に基づき「歴史的・構造的な差別による障害者の不利益」の積極的是正を図るためにあえて当該命令に違反する点で,合理的配慮義務と異質である.
1940年代の児童救済運動と精神衛生運動が小児期を精神医学的監視の対象とする中で自閉症概念が生まれ,不適切な養育を原因とする医学的説明により親が汚名を着せられた.1970年代半ばの脱施設化は医師からセラピストへ権限委譲させ,従来の医学的説明に異議を唱える親の社会運動はセラピストと共同して自閉症の再定義を進めた.発達的逸脱への感受性を高めた20世紀半ばの中流階級の育児規範はアスペルガー症候群概念を拡大させ,知的障害のない自閉症者とその家族の支援を求める親の団体が学術界に影響を与え,自閉症概念の拡大と遺伝学化を進めた.遺伝的共同体の表象は知的障害のある子を親が代弁することに正統性を与えたが,診断基準の拡大は知的障害のない自閉症者を増加させ,彼らの一部は医学モデルを重視する親の団体を批判しつつ,自閉症の脱病理化と包摂社会実現をめざす神経多様性運動を起こし,親の団体と同様に自閉症を定義する学術界に影響を与えた.活動家の多くは自閉症の中核的特徴についての医学的記述に同意する一方,コミュニケーション障害を個人の特徴と考える現在の自閉症概念に異議を唱える者もおり,それを支持する経験的研究もではじめている.コミュニケーションの規範性を研究してきた社会学は,神経学的定型者向けにカスタマイズされ,自閉症者を排除してきたコミュニケーション様式を記述することで,神経多様性運動と連携できる可能性がある.
近代市民法は身分的属性を捨象して理性的に行動する抽象的個人像を作り上げ,理性的判断力に欠ける者の法的能力は制限して他人が判断する分離制度を作り上げた.しかし,人の意思形成は相互依存的支援関係に支えられており,障害のある人とない人の意思形成能力の差は相互依存的支援関係の格差が大きく影響している.この格差は,社会権給付が福祉ニーズを満たすことのみをめざし,類似の福祉ニーズがある者に集約的に給付を行う特殊枠組みを他の市民から分離して作り上げてきたこと(Separate Parallel Tracks)に大きな要因がある.意思形成能力の格差が社会との関係に影響されているという見方は精神障害の社会モデルを導く.さらに,障害の人権モデルは人権の不可分性,相互依存性,相互関連性に基づいて社会権給付も自律,平等,多様性と差異の尊重などの他の人権価値を尊重して提供されることを要請し,Separate Parallel Tracks を除去するとともに他の人権価値も満たされる給付のあり方を求めている.消費者の脆弱性や社会関係を契約に再度取り込む方法を発展させている現代型契約法の発展は,障害がある人の意思形成のあり方と連続した地平にあり,法的行為者を二分していた Separate Parallel Tracks をなくし普遍的な契約法理を構成する可能性を示している.
本稿の目的は,動物葬儀・霊園が増加した経営・技術的背景を検討し,それが伴侶動物を「家族」として扱う実践に与えた影響を解明することである.先行研究では,1980年代以降,「家族」の代替物として伴侶動物の「家族化」が進展したと理解してきた.それゆえに,1990年代以降に動物葬儀・霊園が増加した理由も,伴侶動物の「家族化」を前提に,家族意識や宗教観の変化を優位において分析をしてきた.
これに対して,本稿では,動物葬儀・霊園が増加した経営・技術的な背景を検討し,伴侶動物の「家族化」の過程を相対化して考察した.本稿の方法としては,動物葬儀・霊園に携わる事業者向けに出版された経営情報資料と新聞記事を分析した.
その結果,1990年代以降の動物葬儀・霊園の増加には,移動火葬車の普及にともなう市場競争の激化が関係していたことを明らかにした.移動火葬車の普及は,さまざまな事業者の参入障壁を下げ,動物葬儀・霊園の形態を多様にした.一方で,それにともない市場競争は激化し,営利主義を徹底した悪質な事業者が社会問題を起こした.それゆえに,悪質な事業者と差別化し,動物葬儀・霊園に付加価値をつけて固定的な収入を求めた事業者は,「家族」としての伴侶動物の扱いを重視した.これらの知見から,動物葬儀・霊園における伴侶動物の「家族化」の過程には,経営・技術的な条件が影響を与えていた事実を示した.
2010年代以降の都市・地域社会学においては,日本の地域開発を支える政策が「開発主義」から「新自由主義」的なものへと移行したのかについて議論がなされてきた.この点についてはさまざまな意見が提出されているが,いまだ見解の一致はみられない.
本稿はこの文脈を踏まえ,現代日本における地域開発が旧来の「開発主義」的な要素を色濃く残しつつも,「新自由主義」的政策を組み込むことで成立していると捉えられること,この説明図式は,欧州における都市・地域政策の「新自由主義」化を問題視してきた先行研究の議論とも整合的であることを主張する.そのために,淡路島北部における人材派遣企業と兵庫県の「官民連携」の形成過程に着目し,分析を行う.
本稿の構成は以下の通りである.第1に,日本の地域開発をめぐる先行研究の議論の問題点を解決するためには,「開発主義」と「新自由主義」概念の関係を再考する必要があることを主張する.第2に,この観点より淡路島北部における「官民連携」に注目すべきであることを示し,当該地における企業の取り組みが自治体との密接な関係を通じ可能になっていることを示す.第3に,この関係が戦後日本における伝統的な地域開発の系譜の延長線上に浮上したものであることを,兵庫県における地域開発の歴史を通じて示す.最後に,本事例をもとに日本における「開発主義」の変容と持続を検討し,本稿が提示した分析枠組みの利得を述べる.
65歳以上高齢男性の労働市場からの引退に過去の職業経歴が影響を与えることが明らかになっている.一方で,先行研究では高齢女性の引退における職業経歴の役割を十分に明らかにできていない.そこで本稿では,初職から引退前までの長期間の職業経歴に着目し,長期間の職業的地位が高齢期の就業に与える影響の男女間での異質性を,2015年 SSMデータを用いて潜在アウトカムにもとづいた因果推論の枠組みから検証した.任意の職業時点ではなく職業経歴全体を分析射程に含めることは,男性だけでなく職業経歴上の中断を経験しやすい女性の高齢期の就業行動にたいする説明を提供するうえで大きな意味を持つ.
分析の結果,職業的地位は高齢男性の就業に負の影響を与える一方,高齢女性の就業には正の影響を与えることが明らかになった.職業経歴全体から職業的地位が高齢期の就業行動に与える影響を検証した以上の結果は,一時的な無業を経験し,低い職業的地位に留まり続けている女性が,長期的・慢性的な機会費用の損失に暴露されており,高齢期になっても就業していることを示唆する.
本稿は,日本の精神科病院にて長期入院の傾向が続く状況について,病院スタッフの視点から考察し,脱施設化の遅れの要因を検証する.フィールドとして1950~70年代にかけて病院の新設が相次ぎ,その多くが現存する東京都多摩地域を選んだ.近年の制度改正や診療報酬の改定の影響もあり,精神科病院は従来の入院中心の医療からの転換を余儀なくされ,病床数の漸減という点で,病院によってはゆるやかな衰微の局面を迎えつつある.
転換期にある精神科病院の現状を探るべく,医師と精神保健福祉士を対象にインタビュー調査を行った.結果,病院の特徴を表す類型として「脱施設化を推進する病院」と「長期入院患者を受入れ続ける病院」の2類型が導出された.前者は,病床数の削減や退院促進等を進める特徴を有する.後者は脱施設化の必要性を認めつつも,退院や転院が困難な患者が一定数いることから,その受け皿にならざるをえない旨が語られた.他の病院からの入院・転院要請のほか,地域での受入れが困難な患者も受入れる傾向にあるため,結果的に病院に対する地域の依存度が高まり,医原病とよびうる状態も惹起されていることが示唆された.「脱施設化を推進する病院」では入院が認められない患者も,「長期入院患者を受入れ続ける病院」に引受けられうると考えられ,背景には入院を求める地域の意向もうかがえた.この重層的な関係性が脱施設化の遅れの要因の一つであると考えられる.