抄録
M.ウェーバーの法社会学における〈形式性〉概念の曖昧さについてはすでに様々に論じられてきた。特に, ウェーバーが一方で近代法の特性を〈計算可能性=形式性=論理性〉と捉える一方で, 近代法における論理性と計算可能性との「乖離」を指摘している, という矛盾は議論の焦点のひとつであった。とはいえ, 多くの場合この問題は概念区分の問題かウェーバーの「誤謬」として扱われてきた.こうした議論に対し本稿では, むしろこの矛盾ないし概念上のゆらぎこそがウェーバーにおける法の〈形式性〉にとって本質的であることを明らかにしたい。
ウェーバーの記述からすると, 近世西欧において市民層が要求した法の〈形式性=計算可能性〉とは, 利害関係者の闘争, あるいは彼らの関与する諒解関係間の競合に際して法が各当事者から「乖離」し, 闘争・競合の結果をそのまま「合法化」することを意味する。そして, 法を利害関係者の日常的要求から「解放」する法の〈形式性=理論性〉はその意味で〈形式性=計算可能〉なのである.つまり, 法の〈形式性=計算可能性〉と〈形式性=理論性〉とは, 乖離ゆえに適合的, という逆説的な関係にあり, この逆説性こそが法の〈形式性〉の根幹なのである.こうした認識からは, 法をめぐる社会的諸勢力の競合という, ウェーバーの合理化論や近代社会認識についてのより多元的・力動的な解釈の可能性が拓かれるものと考えられる。