2021 年 18 巻 p. 13-33
本稿は,島の療養所「大島青松園」で,長年自治会活動に役員として関わっ
てきた中石俊夫の生活史を通してハンセン病療養所の戦後を素描する.論述の
ためのデータは,著者のライフストーリー・インタビューの逐語録,自治会誌
に掲載された中石の文章,そして,中石の死後,後見人を通して筆者に託され
た遺品のノートからなる.
中石は,第二次大戦末期の1944 年末に17 歳で入所し,2001 年秋に74 歳
で没した.彼の人生を,戦中から戦後,とりわけ,「思索会」という名の無宗
教団体を作った時期,1953 年の「らい予防法闘争」期,「転換期」の自治会役
員を勤めた時期,「らい予防法」廃止と国賠訴訟の起こった晩年期に区分して
考察した.
その結果,文芸活動をしていた若者たちが戦後の自治会を担い,「転換期」
の療養所に生じた支給金,作業切替など数々の問題に対処してきたこと,にも
かかわらず,一般入所者の自治会への不信と無関心が増大したこと,しかし,
中石はあくまでも草創期の自治会の理念を堅持して運動を行うことを是とした
ことがあきらかとなった.そして,最晩年期,国賠訴訟期とその判決後の島の
住民の状況変化に,中石は,あらためて自身の理念が壊れていくさまを見た。
なお,本稿は,中石と筆者との対話と応答の成果でもある.