2026 年 23 巻 p. 47-66
本稿は,ジョアン. C. トロントの提唱する「フェミニスト的な⺠主的ケアの倫理」が抱える限界を,障害ゆえの表現から公的安全を毀損すると危険視される⼈びとをケアする者の⽴場から指摘し,主流のケア倫理理解とは別様の倫理を⽰唆することを目的とする.
トロントにしたがいケア倫理を政治理論として捉えるとき,そこには「誰がケアするのか?――分配の公正」をめぐる問いと,「誰をケアするのか?――応答の普遍性」をめぐる問いの2 つが⽣じる.しかしながら,ケア資源は有限なため2 つの問いは両⽴困難な関係にあり,いずれを優先するかは政治的な分岐点となりうる.本稿は,「フェミニスト的な⺠主的ケアの倫理」は,前者には応えるが後者には優先的には応えず,公的安全を脅かすと危険視される他者を――そのニーズを公的熟議に基づき後景化し――ケアしない帰結が⽣じうる 点に倫理的な限界があることを明らかにする.その限界の背景を,トロントが依拠する⺠主主義⾃体が有する内在的限界と,ケア理論の2 つの理論潮流の相反から指摘する.そのうえで,優⽣保護法改訂をめぐる歴史的経験と,他害・触法に問われる⼈びとをケアする者の同時代的経験を通じて,別様の倫理への構えを⽰唆する.
最後に本稿は,有限なケア者がどうしようもなく「傷ついた世界」に圧倒され業を背負うところに,〈倫理〉への接近があることを示す.