哺乳類科学
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総説
科学史的にみた渡瀨庄三郞の自然観・科学観―1910年沖縄島などへのマングース導入との関連―
金子 之史
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2024 年 64 巻 1 号 p. 3-63

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抄録

文献史料調査により,渡瀨庄三郞が1910年に沖縄諸島へフイリマングースUrva auropunctata(以下マングース)を導入した時の理由を,彼の自然観・科学観との関連で5点推測した.第1点:渡瀨はジョンズ・ホプキンス大学(JHU)留学時に同期のT. H. Morganに比べて実験関連の科目履修が少なく,1890年JHUの学位論文では事象の一般化や今後の推測や仮説を示しておらず,科学の方法への関心が低いということ.第2点:渡瀨がマングース導入時に用いた「試験」や「実験」は最終的な結果や検証を予定せずに通常状態を人為的に変更する意味であったということ,また当時の谷津直秀を含む日本の動物学者は実験を仮説と関連した科学の方法としては捉えていなかったということ.第3点:渡瀨は1910年前後まで自然が人為によって征服可能という自然観をもち,また米国昆虫学者C. L. Marlattから米国での昆虫類の生物学的防除の成功例を直接聞いたこと,しかし学問を長期的視点で捉える箕作佳吉の影響は認められなかったこと.第4点:沖縄諸島へのマングース導入を考えていた渡瀨は1908年セイロン島でマングースが大変巧妙にコブラ(Naja sp.)を捕捉する状況を目撃した.動物学的な意味づけや論理よりもこの映像的・情感的なイメージが渡瀨には勝っていたであろうこと.第5点:1910年マングース雌雄各2頭の渡名喜島導入後,1頭が野外でハブProtobothrops flavoviridisを殺食した事実と雌と幼獣各1頭が巣穴で発見された事実から,渡瀨はマングースが野外で生存可能と判断した.この判断は,渡瀨の種認識が沖縄諸島の生態系の中で生息する個体群の集まりという現代的な理解ではなく,同一個体のコピーという類型学的な捉えであったであろうこと.

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